Здравствуйте(ズドラーストヴィチェ)
こんにちは、東京外大ロシア語専攻3年のりおです。
今週のリュボーフィのブログでは「ロシア・周辺地域の文学特集」をお送りします。
「ロシア文学」というと、ドストエフスキーやチェーホフといった有名な作家による小説や戯曲がパッと思い浮かびやすいかもしれません。でも実は、「詩」というジャンルにおいても素晴らしい詩人たちによって秀逸な作品が多く書かれているんです。
第一回からいきなりロシアからちょっと外れますが、今回はロシアの西隣の国ベラルーシ出身の詩人たちを取り上げようと思います。ヤンカ・クパーラ、そしてヤクプ・コーラスという二人の詩人です。両者とも日本ではほとんど知られていませんが、20世紀前半という同時期に活躍し、母国ベラルーシでは国民詩人と呼ばれ今でも愛されています。(ロシアでいうところのプーシキンのような位置づけです。)
↓本題は3つ目から始まります。本稿はかなり長めなので、ロシア詩やベラルーシについてちょっとは知ってるよ!という方はジャンプしちゃってください。
はじめに − ロシアの詩ってなんぞや?
まず、「詩」という一つの文学ジャンルがロシアにおいてどのような変遷を辿ったのかごく簡単に説明します。
ロシアの詩は、歴史的に見ると、大きく分けて2つの時期に興隆が起こりました。
1つ目は19世紀前半の「金の時代」と呼ばれる時期で、プーシキンやレールモントフを中心にロマン主義的な詩が多く作られました。有名なロシア作家といえば誰もが知っているであろう、ドストエフスキーやトルストイたちによる散文文学が花開いたのも、この「金の時代」の詩によるロシア文学の言語的成熟の結果であるとされています。(『ロシア文化事典』p.325)
そして、19世紀末から20世紀初めにかけては「銀の時代」と呼ばれる二度目の興隆が起こります。世の中の流れとしても革命の機運が高まり、ロシアの時代の大きな転換点を迎えている時期でした。知れば知るほどとても面白い時代なので、詳細は本などでぜひ調べていただきたいのですが、ロシア象徴主義に始まり、それに対抗した未来派、アクメイズムなど… 多種多様な詩人たちが登場し、様々な形や手法で詩的言語の変革が目指されました。ソ連当局の監視の目はギラギラ、それに増して詩人たちの情熱はメラメラ・アツアツでした。
日本では、「詩」は小説に比べるとかなりマイナーなジャンルかもしれません。金子みすゞや谷川俊太郎など著名な詩人は多くいるものの、きっとほとんどの方にとっては、「小中学校の国語の教科書で読んだっきり」になっている気がします。(そうこう言う私も大学3年生になってロシア詩の授業を受けるまでは、ほとんど意識することはありませんでした。)
しかし、ロシア人にとって「詩」というのは、どうやら日本人の感覚よりもずっと身近にあるものみたいです。私も、この前ロシア人の友人に私の好きなロシア語の詩について話すと、とても喜んで聞いてくれたのでちょっと驚きました。
今回紹介するヤンカ・クパーラとヤクプ・コーラスは、いずれもロシアの「銀の時代」と時を同じくして創作に励んだ詩人たちです。
最近何かと話題の「ベラルーシ」
さて、次に、ロシアの隣国ベラルーシについてあなたはどのくらい知っているでしょうか?
大統領選でデモがやばいとこ?
→そう!
ソ連の一部だったよね?
→そう!
美男美女が多い国?
→そうかも⁈
地図ではここにあります。海なし国なんですね。
ベラルーシ共和国は1991年のソ連崩壊とともに独立しました。「白ロシア」とも呼ばれることもありますね。旧ソ連の国の中では政治的にロシア寄りだと言われています。
ベラルーシ語という言語もありますが、現在は特に都心部ではロシア語を話す人が多いようです。(どちらも東スラヴ語群の言語なので、文字・文法・語彙で似ている点が多々あります。)
現在は工業が中心産業ですが、かつては農業が盛んでした。ジャガイモを使ったドラニキという料理が美味しいです。
また、ご存知の方が多いように、最近はルカシェンコ大統領の再選を巡ってベラルーシ各地でデモが行われています。(どうかこれ以上負傷者が出ないといいのですが。)
私は去年の夏休みにベラルーシに短期の語学留学に行きました。それ以来勝手にこの国に親近感を持っているので、こんな形でベラルーシが日本の地上波で放送されるなんて思ってもみませんでした(笑)
「欧州最後の独裁国家」なんて怖い呼び名もありますが、個人的にはベラルーシ国内はもっとのどかで落ち着いたイメージがあります。現地の人もとても親切でした。
そして、今回取り上げる二人の詩人は、そんなベラルーシで生まれ育ったのでした。
民衆を導く自由の詩人 ヤンカ・クパーラ
やっと本題に入ります。
一人目に紹介する詩人はヤンカ・クパーラ(1882-1942)。
初めましてという方も多いと思うので、プロフィールをご紹介します。
本名はイヴァン・ドミニコヴィチ・ルツェヴィチ。1882年、ベラルーシの首都ミンスク郊外にある村で生まれました。歴史あるカトリックの名家の生まれながらも、実際は耕作用の土地を借りるために両親は多額の借金をし、8人もの子どものいるクパーラの家族は長年貧しい生活を送っていました。
クパーラが13歳のころ父親が亡くなり、その後も彼は様々な仕事を転々としながら家族を支えました。16歳のころにはロシア第一次革命に参加しました。
自身の経験からか、若い頃は社会の不条理やベラルーシの貧民の生活を主なテーマとして詩を書きました。
そしてクパーラは19歳のころからベラルーシの新聞の編集部で働き始めました。この頃に制作され、彼の代表作となった詩「誰だ、そこへ行くのは」はロシア人作家ゴーリキーによってロシア語に翻訳され、ロシア国内で多くの人の目に触れるきっかけとなりました。
20歳になるとサンクトペテルブルクやモスクワへ移り、大学で勉学に励みました。22歳のころミンスクの新聞に自身の作品が掲載され、詩人としてのデビューを飾りました。しかし1916年、27歳のころに第一次世界大戦のために徴兵されると就学を中断し、ロシア十月革命が起こるまで道路建設に従事することとなりました。戦争と革命の経験は「個人の生き方と社会との関係」という大きなテーマを彼の製作に与えたと言われています。
その後、クパーラは生涯にわたって多くの詩の作品集を発表しますが、あまりにも膨大なので今回は割愛します。
革命後はミンスクへ移り、その後の自身の制作の拠点としました。革命に肯定的だったクパーラは、ソヴィエト時代が始まると、当局がベラルーシの人々の生活をよくしてくれるだろうと希望を見出し、明るい未来への期待を謳った詩を制作するようになります。
しかし、彼の期待とは裏腹に、ソヴィエト政府との関係は良好なものではありませんでした。当局は「クパーラの詩は信憑性がない」などとメディアに批判させては、詩人としての彼を窮地に追いやることとなりました。さらに彼は、粛清を避けるために自身の「罪」をすべて告白し「イデオロギーの過ちを繰り返さない」という悔い改めの公開書簡を発表することとなります。このように精神的に追い詰められたクパーラは自殺未遂を図ることもありました。
第二次世界大戦(ロシアでいう大祖国戦争)の時代には、クパーラの明るく煽動的な作風が人気を博すこととなります。
ミンスクを去ったクパーラはカザン近くの集落に定住します。1942年、60歳のときにモスクワのホテルで亡くなりました。死因については諸説あるようです。
クパーラは、「革命」による人民解放に対してやはり強い思いを抱いていたようです。彼の詩について書かれた記事での記述を紹介します。(筆者訳)
「彼は、ベラルーシの解放がソヴィエト共産党の国家政策の勝利の結果としてのみ可能になったことを繰り返し強調したのだった。」
愛国心というと、「我が国が一番!」というようなナショナリズム的なものを想起しがちですが、クパーラの詩はもっともっと広く、地球全体への柔らかな愛が感じられる気がします。
彼の詩の多くはシンプルな構成で理解が容易なことからも、現在もベラルーシの学校で子ども向けの教材としてしばしば用いられるそうです。
いくつかクパーラの作品を読んでいて、私の気に入ったものを訳してみました。意味の取りにくい箇所はロシア語話者の友人に聞いたのですが、翻訳は絶賛勉強中なので、雰囲気だけ掴んでください…(笑)
ロシア語訳されたもの(本稿の末尾にURL掲載)を参考にしています。誤りがあればコメントで教えていただけると嬉しいです。
「探さないで」
幸せを探さないで 注ぎ足そう
まだ見ぬ遠く離れた野原に
ざわめく森の奥に
広がる海の向こうに
幸せを探さないで 注ぎ足そう!
あなたはすぐそばに幸せを見つけるだろう
そこでは — 母親が腰をかがめ
あなたのゆりかごを揺らし
息子に歌を歌って聞かせた —
すぐそばにだけ見つけることができるのだ!
自分で友だちを探さないで
見知らぬ人の中に あなたは遠くにはいない
市場にも 病室にも
裕福な地主たちの中にもいない
自分で友だちを探さないで!
あなたはすぐそばに友だちを見つけるだろう —
農民小屋の近くに 低いものの近くに
そこは — 子供時代を過ごしたところ
鎌が草を刈るところ —
すぐ近くにだけ見つけることができるのだ…
兄弟よ 人生の中に故郷を探さないで
祖国、故郷の風とともに —
陸の上でも海の中でもない
幸せの中でも悲しみの中でもない
人生の中に故郷を探さないで —
あなたはすぐそばに故郷を見つけるだろう —
高くでも 低くでもなく —
あらゆる飛行をすっかり忘れて
ただ自分の心だけを見て —
そして すぐそばに故郷を見つけるだろう!
1914年
ベラルーシの金八先生 ヤクプ・コーラス
続いてヤクプ・コーラス(1882〜1956)をご紹介します。なんとクパーラと同い年なんですね。
「この二人接点あるでしょ!なんならマブダチじゃね?」と思って調べたのですが、二人の直接の交流に関する情報は見つかりませんでした。
本名はカンスタンツィン・ミハイラヴィチ・ミツキェヴィチ。1882年、ミンスク郊外の村で正教会の家系のもとで生まれました。コーラスは12歳のときに初めて詩を書き、青年期にプーシキン、レールモントフ、ゴーゴリなどのロシア文学を好んで読んでいたそうです。
父親はコーラスの文才に理解がありました。コーラスは15歳のころから4年間教育神学校で学んだ後、19歳のころ教師として働き始めました。23歳のころには、クパーラと同様に、ミンスクの新聞で自作の詩を初めて発表しました。翌年、彼はベラルーシの新聞社の編集長のポストを任されます。ロシア全土で革命の機運が高まっていたこの時期、コーラスも革命家や農民との交流を続けていました。
25歳のころ、彼は違法の教育議会(地下会議)への参加などを罪に問われ、一部は冤罪だったものの、ミンスクの刑務所に3年間投獄されます。出所後はベラルーシのブレスト州ピンスクで再び教鞭を執ります。
32歳のころ、第一次世界大戦の始まりとともにコーラス一家はモスクワへ避難します。そこでも教師職を続けるも、すぐに軍隊に動員されることとなりました。
38歳のころ、ミンスクに戻ってきたコーラスは詩の創作活動に精を出します。ベラルーシ州立大学の教師育成コースで講義を行ったり、ベラルーシ文化研究所に勤めるなど、周囲からの信頼も厚く、順調に自身の社会地位を築いていきました。
コーラスの詩は、彼のベラルーシ人としての自己のアイデンティティの巧みな描写や、農民の精神性への深く謙虚な理解を特徴としています。
しかし、コーラスのこのような創作もクパーラと同様に、抑圧的な当局の目に止まることとなります。彼もまた、自分の思想を政治的に誤っていたと公的に認め、悔い改めることを強いられました。
大祖国戦争の間はモスクワ、タシケントなどを転々とします。また、コーラスはロシア語−ベラルーシ語辞書の編集にも携わりました。
61歳になったコーラスはミンスクに戻ります。1946年、63歳のころにはソビエト連邦国家賞を受賞しました。晩年は肺炎などをおこし病気がちになり、コーラスは享年73歳で亡くなりました。
コーラスに関する記事を読んでいると、このような記述がありました。(筆者訳)
「(クパーラと比べると)コーラスの方がより現実的かつ写実的な描写を得意とし、人生における様々な困難をロマンチック化する傾向はあまりなかった。」
彼の作品を読んでいると、たしかにそんな気もします。
さらに、個人的にはベラルーシの雄大な自然の風景描写や詩の豊かなリズムも巧みに表現されているところも素敵だなと思いました。
コーラスの作品も一つだけ訳してみました。彼も政治的な詩や愛国主義的な詩を多く残しており、どれも躍動感があって素敵なのですが、なぜか私は晩年に書かれたこの詩が気に入りました。
先ほどのクパーラの詩と比べるとやや難解ですが、全部理解しようとしなくていいと思います。(訳もかなり微妙です。)なんとなく感じてください。
「星」
底なしの深さから星が私に向かって輝く
永遠の空はひそかに美しい
いくつかの繋がり 途切れることのない流れ
星々の名前だけ 私は見つけることはない
星が私に優しくささやく 「ゆっくりおやすみなさい」
ああ 気忙しい旅人 ようやく落ち着いて
あなたの心に遠くの嘆きを運ぶ
輝きの原子は聖なる旅路の中で悲しんでいる
輝く星よ! あなたは明るい屋根裏部屋
あなたは私の苦しい十字架を持ち上げた
平和の喜びを 私にください
ああ あなたは遠く あなたの熱は冷たい
夕暮れは曇った天蓋の下へ沈む
ハープは壊された 誰の手によって?
1943年
おわりに − 詩が人に与えるもの
この記事を書こうと思ったのは、ベラルーシ大統領選に関して、ベラルーシの政治について日本のメディアでも珍しく頻繁に報道されていたことがきっかけでした。ポジティブなニュースではありませんでしたが、ロシアとその周辺地域についての情報発信をしている身として、ベラルーシについて知り、関心を持ってくれる人が増えることはとても喜ばしいです。
ただ、先述したように私は去年の夏にベラルーシの町を訪れましたが、少なくとも私の見たこの国はテレビで見るよりもずっと穏やかで、内面的な優しさを持った人情味のある人々がたくさんいました。メディアでの報道のされ方と自分の見たものとの間に少しギャップを感じた面もありました。
異文化に触れるときに、メディアのように誰かによって解釈され相対化されたものを通じて知ることは多々ありますが、その地域の言葉に直接触れることは案外少ないかもしれません。私は外国文学を読んでいると、しばしば「つまりどういう意味?何が言いたいんだ?」と聞きたくなってしまうのですが、大事なのは多分そういうことではありません。詩の解釈は自由であるがゆえに難しいところでもありますが、とにかく言葉に触れて、自分の感性で感じて、自分の頭で考えることがけっこう重要なんじゃないかなと思います。
文学の中でも、私が個人的に詩の良さだと思っているのは、短い言葉の連なりの端々に、今もなお詩人の息遣いが感じられるところです。生き生きとした優れた詩は、詩人の死後も、後世の人々にも語り継がれてゆきます。
また、ロシア文学はそこそこ広く知られていますが、ベラルーシの文学に触れる機会はあまりないのではないかと思います。この国の文化やこの国に住む人々の思想に触れて、何かを感じてもらえると嬉しいです。
文責:りお
*今日のロシア語*
Беларусь(ベラルーシ )
意味:ベラルーシ
духовность(デュホーヴナスチ)
意味:精神性
【参考文献】
・沼野充義、望月哲男、池田嘉郎編『ロシア文化辞典』丸善出版株式会社.
・Якуб Колас — Википедия(最終閲覧日:2020/09/12)
https://ru.wikipedia.org/wiki/Якуб_Колас
・Янка Купала — Википедия(最終閲覧日:2020/09/12)
https://ru.wikipedia.org/wiki/Янка_Купала
・Биография Я. Коласа - Национальная библиотека Беларуси(最終閲覧日:2020/09/12)
http://content.nlb.by/content/dav/nlb/portal/content/File/Portal/Vystavki/Kolas_r/html/biogr.htm
・Янка Купала биографии / 24СМИ(最終閲覧日:2020/09/12)
https://24smi.org/celebrity/17988-ianka-kupala.html
・辰巳雅子「ベラルーシの歴史と文化」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/tatsumi.pdf
【作品の原文とロシア語訳】
・Не ищи - Янка Купала / Стихи русских поэтов
https://stihi-russkih-poetov.ru/poems/yanka-kupala-ne-ishchi
・Звезда - Якуб Колас (Серж Конфон 3) / Стихи.ру
https://stihi.ru/2019/04/27/375
・Зорка - Якуб Колас / БЕЛАРУСКАЯ ПАЛЫЧКА
https://knihi.com/Jakub_Kolas/Zorka.html