東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

新井滋特任教授【ロシア語科教員インタビュー〈前編〉】

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● 新井滋/ARAI Shigeru

1957年、茨城県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。外大では特任教授・大学の世界展開力強化事業(ロシア)のプログラムコーディネーターを担当。担当授業は、日露ビジネス講義、日露タンデム学習、国際日本学、ロシア語医療通訳入門、駐在員のロシア語。

 

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ビジネスの世界に入る前の新井滋学生

―なぜ大学の専攻としてロシア語を選ばれたのですか?

高校生の時に英語が好きだったので、「とにかく外大に入って何か外国語をものにしたい」という気持ちが最初でした。ロシア語を選んだ理由は、当時ソ連に対し親しみを感じている人はあまりいなかったので、競争が少なくて希少性が高くなるだろうと思ったためです。実際に自分の人生を振り返ってみると、その選択は正解だったかな、良かったなと思います。後悔はないですね。

 

―留学はされましたか?

留学はしませんでした。私が入学した1976年の当時は派遣留学制度がなく、また、個人の留学にしてもソ連はあまり門が開かれていない状態でした。なので、留学は自分の選択の範疇にはありませんでした。限りなく観光旅行に近い語学サマースクールに参加した同級生に何名かいたんですが、本格的な留学をした学生はいませんでした。実は、沼野先生と同期で同じクラスだったんですが、沼野先生は『ロシア語スピーチコンテスト』で優勝して、そのご褒美で無料で夏休みに何週間かロシアに行かれてましたね。(沼野先生の記事は6/28,29に公開予定です!)

 

―卒業論文は何について書きましたか?

当時は卒業論文を書かなくても、他の科目をいくつか取れば卒業できる制度だったので、卒業論文は書きませんでした。羨ましいでしょう(笑)

 

―学生の頃思い描いていた将来像と実際のキャリアに違いはありましたか?

当時の私は決定をやたら先延ばしにする「モラトリアム人間」だったので、キャリアについては真剣に捉えていませんでした。いきあたりばったりのような感じで、ロシアに関する仕事であれば何でもいいよというようなスタンスでした。一つだけ言えるのは、「ずっとロシア語が使える仕事がしたい」という強い意欲があったことだけは確かです。

 

―「大学生の時にやっておけばよかった」と思うことは何かありますか?

卒業論文を書いておけばよかったなあと思いますね(笑) 自分で調べて担当教授と意見を交わすというプロセスを経験しておきたかったなと思います。あとは、学部2、3年生のころから、自身の将来のキャリアについてもっと真剣に考えておけばよかったと後悔しています。

 

―バイト・サークル・部活動では何をされていましたか?

小学生の頃からずっと野球をやっていて、『巨人の星』を目指していたほどの野球少年だったので、大学では有志と一緒に軟式野球同好会をつくりました。私たちが卒業してしばらくしてから「部」に昇格したとういことで、今の軟式野球部は私たちの同好会が「始祖」なんです。で、その片手間に、コンツェルト(ロシア演劇のインカレサークル)のお手伝いをしていました。舞台に立つことは憚れたたので、裏方の照明係をやっていました。あと、バイトはガソリンスタンドで土木工事の仕事をしたり、東京新聞で地方版の校閲をしたりして、学生ながらそこそこ稼いでいました。

 

 

新井先生の輝かしいキャリア

―どのような経緯でロシアビジネスにたどり着いたのですか?

とにかく、ロシア語以外の仕事は就きたくなかったですね。たどり着いたというよりも、その道しかあり得ないというような感じです。ロシア語をずっと使える仕事は何かということで、大学の就職課(現グローバルキャリアセンター)に行って調べに通ってました。

 

―これまでなさってきた仕事について教えてください。

卒業後すぐに就職したのは、ある総理府の外郭団体でした。ソ連、中国、北朝鮮などの共産圏の動向を調査する研究所で、そこに一年弱いました。毎日のルーティーンとしては、午前中に日本の新聞主要6紙を読んで、ソ連関係の記事をクリッピングすること、、午後になると今度はソ連の新聞を読んで要人の動向を追ったり、掲載されている重要な論文を翻訳したりすることでした。ソ連事情に詳しくなったとともに、翻訳をすることでロシア語の読解力がつきましたね。ただ、私にとっては単調な仕事のためにすぐに退屈になり、早々に辞めることを決意しました。

次は『呼び屋』での仕事です。呼び屋とは何かというと、海外から芸能人を「呼んでくる」ところから来ています 別名プロモーターとも呼ばれています。一般的には日本で行う公演の企画・準備・運営をするという仕事をします。私がいたのはソ連や東欧専門の呼び屋で、劇団とかサーカスといったものを中心に呼んでいたんです。劇団の人の来日前は青年会議所や新聞社などに公演をまるごと買ってもらったり、団体でチケットを買ってもらったり、協賛金や広告を集めたりといった営業の仕事を行いましたね。来日後は密着同行して受け入れ会場の日本人と来日したロシア人の裏方さんたちの間に入って通訳などをしたり、アーティストさんの身の回りの世話をしたりしました。この仕事では否応なく中身の濃いロシア語環境にどっぷりと浸かったので、日本にいながら留学をしたような感覚でしたね。でも、この仕事の将来性、安定性に疑問を持ち始め、次の仕事に移ろうと思い始めました。

そんななかで、たまたま朝日新聞にソニーの海外営業要員の募集のなかにロシア語ができる海外営業要員の項目もありました。そこに思い切って応募し、試験・面接を通過して運良く入ることができたんです。私が配属されたのは、民生用のテレビやビデオではなく、業務用の放送機器などを扱う部門でした。入社6年経ったところで、モスクワに事務所を作ることになり、第一号の駐在員として赴任しました。いまから30年も前のことです。普通は赴任してから3~4で帰任するものですが、特にどうしてもロシア駐在を続ける希望を人事に出していたわけではないのに、5年、10年と時がたっても帰任命令は来ませんでした。そうこうしているうち、15年目に入ろうとするタイミングで「いくらなんでもそろそろ日本に帰ってこないか」という声が掛かりました。私としては、東京本社に帰ってもロシア関係の仕事がないことは分かっていましたし、もう少しロシアにいたいという気持ちが強かったので、たまたま当時社内で管理職向けに案内されていた早期退職プログラムがを利用し、モスクワにいたまま退職しました。最終役職は、ZAO SONY CISという現地法人の社長でした。

その次に入ったのが、富士フイルムの子会社のフジノンという会社です。これはソニーにいた頃からお付き合いがあった会社なのですが、放送局用のカメラレンズを作っているところでした。ロシアに進出したいので、相談に乗ってくれませんかというところから始まり、2011年くらいにフジノンが親会社の富士フイルムに完全に吸収されたタイミングで、私も富士フイルムに移籍になったんです。それまではパートタイムだったのですが、富士フイルムにいってからはフルタイムになりました。富士フイルムの関連会社と富士フイルムで合わせて8年半ロシアで仕事をしましたね。

それを終えて日本に帰ってきたのが2014年で、その時点でセミリタイアという形で、時々アルバイトなどをしながら悠々自適に過ごそうと考えていました。その中でアルバイトの一つとしてやったのが、JETROの海外進出支援専門家の仕事です。日本の中小企業でロシアに進出したい企業の相談に乗るという仕事を2017年半ばから始めました。

ちょうどそれから何ヶ月か経ったときに、現在担当している世界展開力事業のコーディネーターとして外大に着任することになったのです。JETROの方は兼職ができたのですが、大学での仕事が忙しくて、9ヶ月ほどでJETROの仕事を辞めざるを得ませんでした。コーディネーターという仕事は皆さんご存じの通り、日露の学生の交流を促進するということで、サマースクールやインターンシップの企画・運営、ビジネスに直結した実学教育などの仕事を今現在もしていて、来年の3月まで務めることになっています。

 

―コンサルティング会社を設立したとお伺いしました。そのことについて少し詳しくお話を伺えればと思います。

パートタイムベースでフジノンのサポートをしているときに設立しました。フジノンの仕事は朝9時から午後2時半までフジノンのオフィスで仕事をし、その後は自由となっていました。そのタイミングでコンサルティング会社を設立したんです。もともと、ソニーロシアで私の秘書だった女性とその旦那さんに誘われて三人で起業しました。私はロシア滞在が長かったので、ソニーにいた頃から、色々な会社からロシア進出についての相談を受けていたんです。そういったこともあり、ソニーを辞めたあとにそのような相談に乗る仕事をしたら良いのではと思っていました。そのときに先ほどの二人からお誘いを受けました。私は個々の企業から相談を受けるのですが、その相談の中で大抵、人をどのように採用したらいいかという質問を貰っていました。そこで、新しく作った会社が採用の部分を担当すればいいと考え、コンサルタント兼リクルート会社としたんです。むしろリクルートの方に重きを置いていたと思います。私が個々のお客さんを引き込んできて、そのお客さんをリクルート会社に紹介して、日本の会社にとって必要なロシア人の人材を紹介していました。クライアントの中には某楽器メーカーやアパレルメーカーなどがいました。このアパレルメーカーのロシア第一号店のサポートをしたのも私の会社です。進出に当たってロシア人の体のサイズをメジャーで測る必要があったのですが、それに関しては私の会社にいたロシア人スタッフのボディを測定しました。また、日本的な接客をするための研修を私の会社の会議室で行った他、経理のサポートも行いました。この会社のロシア進出は、私の会社が丸抱えで行ったといっても過言ではありません。

 

―ロシアビジネスをする上でのモチベーションなどはありますか。

私の中ではロシアでロシア語を使った仕事をするということが第一優先でした。ロシアでロシア人と仕事をすることが楽しくて仕方なかったですね。夜になるとサーカスを見に行ったり、芝居を見に行ったり、夢のような生活でしたね。これが私のモチベーションになっていたのだと思います。

 

―ロシアビジネスをする上で失敗や挫折の経験があったら、教えていただきたいです。

仕事上で競合他社と競って契約を取れなかったことなどは良くありましたが、それに挫折を感じたことはありませんでした。そのプロセスをむしろ楽しんでいたように思いますね。チャレンジングな経験として言うならば、ロシアの従業員を雇っていたのですが、彼らを上手くマネジメントするということは難しかったですね。ただ、挫折や失敗という記憶はありませんね、もう忘れてるのかもしれないけど(笑)

 

―新井先生が考える、これからの日露ビジネスに期待される分野は何ですか?

ロシアは資源国で資源に頼った経済構造なのですが、それでは将来がないので、構造改革をしていくと思います。ロシアはIT分野の将来性が大きいので、日本のIT企業がロシアのIT企業と組むということなどに可能性があるのではと思いますね。ロシアオリジナルのソフトウェアや技術などがあるので、協力し合える分野があると思っています。ただ、情報テクノロジーなどの分野で、アメリカと組んでいる日本がロシアと協力することは国益にかなわないという部分があるかもしれません。しかし、国益に関わることばかりではないので、民政の分野などで協力し合えることがあるのではないかと考えます。

 

取材・執筆担当:明歩谷七海(4年)、芝元さや香(4年)、添田乙羽(4年)

 

↓インタビュー後編はこちら

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