東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

鈴木義一教授【ロシア語科教員インタビュー〈前編〉】

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● 鈴木義一/SUZUKI Yoshikazu

1961 年、千葉県生まれ。総合国際学研究院教授、国際社会学部地域社会研究コース。東京大学経済学部卒業、東京大学大学院経済学研究科理論経済学・経済史学第二種博士課程単位取得退学。‘90~’92年ロシア国立人文大学にソ連政府国費留学。ご専門はソ連経済史や現代ロシア地域研究などであり、大学では1年生の地域基礎の授業を担当していらっしゃいます。ゼミではロシアや中央アジア諸国に関する論文を読み、そこで生まれた疑問に対するディスカッションを行っています。

 

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ロシア・ソ連との出会い

―ロシア語やソ連に関心を持たれたきっかけを、エピソードなどを踏まえながらお伺いしたいです。

大学に入った時に第二外国語でロシア語を選択したので、最初はそれだけの理由でした。1、2年生の時はほとんどロシア語を勉強していなくて、ちゃんとロシア語を勉強し始めたのは、大学院に進学することを考え始めた頃でした。そして、次にソ連に関心を持ったきっかけですが、正確には覚えていないので、今思い返してみるとこうだったのではないかという観点からお話ししたいと思います。当時はアフガニスタン侵攻後の冷戦末期で、西側諸国がモスクワオリンピックをボイコットしてソ連がロサンゼルスオリンピックをボイコットした、「ソ連といえば敵」というような時代でした。ですから、そういったところに関心を持って、周りとは全然違うことをやろうと考えたのだと、今振り返ると思います。

 

―最初に興味を持ったきっかけは些細なことのようですが、ロシアに関係する取り組みを続けることができたその源泉はどこにあると考えられますか?

実はずっと続けることができたわけではなくて、大学1、2年の時はほとんどロシア語を勉強せずにスレスレで進学して、その後も1年半くらいはロシア語に触れていませんでした。

そして、3年生の時にソ連経済の先生のゼミに出席していて、そこで、せっかくだからロシア語の文献を読もうということになりました。これが本格的にロシア語をやり始めた時になります。その後に大学院に進学することを決め、そのためにはロシア語をちゃんと読めなくちゃいけないのでしっかり勉強するようになりました。

当時はロシア語の会話の授業はほとんどなかったですし、私の所属していた大学ではロシア語のネイティブの先生はいませんでした。留学に行くにあたり全然ロシア語を話せないと困るということで、留学が決まってから慌てて、東京ロシア語学院(旧・日ソ学院)に通い始めて、ロシア語の初級の会話の授業を取って勉強しました。

留学が始まってからは、サバイバルロシア語のような感じで、現地で生活しながらロシア語を覚えていくような形でした(笑)

 

―ロシア国立人文大学への国費留学について、お伺いできますでしょうか。国費留学がどのようなものなのか、留学の目的、現地でやったことなど、色々教えてくださると幸いです。

これは、ソ連政府の高等教育省の奨学金で、ロシアの高等教育機関(大学)の受け入れによって、留学するというものでした。私が留学した年の1年前に始まった制度で、1989年が第1期生です。私は第2期生で、制度ができて2年目の1990年に留学しました。

その時は大学院の博士課程で、「ロシアの1920年代の経済専門家の活動」というようなテーマで研究していたので、その資料を読みに行くという目的で留学していました。

 

―留学においては、研究以外のプライベートの面で楽しかったことや思い出などはありましたか?

私たちは寮に住んでいたのですが、当時の留学生を管理するシステムでは、西側諸国の留学生と、ソ連の一般の学生が、居住区域などにおいて、完全に別扱いになっていました。その少し前の時代だと留学生の監視体制もあったようですが、私が留学生だった頃は崩壊が間近に迫ったソ連末期だったので、留学生を監視する余裕はなかったみたいです。ただ、西側諸国の留学生は2、3階の部屋というように、居住空間が区別されていたので、なかなか普通のロシア人と接触することがないような構造になっていました。一方で、アメリカ、イギリス、オランダの留学生との交流は結構ありましたね。

ただ、ロシア人と切り分けられた構造であったとはいっても、そうだからこそアプローチしてくるロシア人もいました。ロシア人は一般に結婚するのが早いので、夫婦で寮に住んでいる方も多くいましたが、その中の一組が、私たち留学生の生活の面倒をよく見てくれたんです。そのついでに、彼らはドルの両替をしてくれと言ったり、物不足が原因で普通のお店には売ってないような物を安く売ってくれたりしました(ただしドル払い)。彼らを通して、同じ世代のロシア人との交友関係を深めていきました。仲良くなって毎週末に宴会をして楽しんでいましたね(笑)

 

研究者として生きること

―現在、先生は何について研究なさっているのでしょうか。

1つ目のテーマは1970年代から80年代にかけてのソ連の経済改革とその思想です。具体的に言うと、85年以降始まったペレストロイカの際に経済改革を行ううえでのイデオローグ的な人物たちについて、その人たちが、ペレストロイカが始まる前の70年代80年代にどんな研究をしていて、そのことが今振り返るとどういう意味をもつのか、というようなことをソ連経済史の研究ではしています。

2つ目に現代の研究について言うと、現代のロシアの社会意識というのを1つ目のテーマとは別に細々と以前から研究していて、その変化を折に触れてチェックしています。

それから3つ目に、今はコロナの影響でストップしていますが、国境地域を研究するグループを運営されている方との付き合いで、中国とロシアの陸の国境地域を訪れて研究するというのを2,3年前からやり始めました。大体この3つのテーマに分類できますね。

 

―続きまして、大学教員という職に就くまで、さらには今の研究分野に至るまでにどのような道をたどってこられたのかお伺いしてもよろしいでしょうか。

さきほど話した、なぜソ連について研究し始めたのか、ということは折に触れ聞かれるのですが、要するに出発点はマイナー志向なんですよ。それでも、マイナー志向でやっているとわかってきたことがあって、まずソ連について西側諸国で言われているようなイメージと実体というのがかなり違うんじゃないかということ。例えば悪の帝国だなんて言われたり、社会主義体制で抑圧されていて人々の暮らしは貧しく…みたいなイメージを持たれていたりもしましたが、研究していくとそうでもないかもしれないという実態が見えてきます。


また、政治や経済の体制が違うことについても、確かに社会の違いというのはありますが、どのように人々のものの考え方が違うのか、人々の行動様式に違いはあるのか、こういったことを専門的にやり始めて気づくのは、当たり前ですが人々の行動や社会の在り方は体制が違っても同じところは同じだ、ということです。そしてこの「同じだ」という発見に加えて、違うなら違うなりにいろんな要因があるわけです。それは権力による統制だとか抑圧だとかではなくて、文化的な背景だったり価値観の違いだったり。この違いの意味を、例えば体制の違いだとか共産主義のイデオロギーだとかとは少し切り離して、違いという部分にもっと切り込んでいくと面白いんじゃないかと思うようになり、大学院で専門的にやろうかなと考えるようになりました。

当時は大学院に合格する人数も少なかったし、さらに大学院に入ったとなると就職はしないということが事実上決まっているようなものなので、まあ大学院に進んだ以上はこれで行くしかないんだなという感じになっていきましたね(笑)

 

―次に、学生時代の失敗談がありましたらそれについてお聞きしたいです。また、それをどう乗り越えたのでしょうか。

失敗談を挙げていくと数限りないので、どうやって克服するかということですと、結局なるようにしかならないと割り切るしかないんじゃないですかね。そういう意味で言うと、幸い、あまり深刻に考えなくてもなんとかなってきたということですかね。まあ、よく言われる言い方で言うと『明日は明日の風が吹く』というような、そういう性格の部分があるので(笑)、一晩寝ればなんとかなるだろうなんて、そんな考えで乗り切った部分は多いですね。

 

取材・執筆担当:しいな(3年)、Na(4年)、S(1年)、Аоки1年)

 

↓インタビュー後編はこちら

tufs-russialove.hatenablog.com