東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

前田和泉教授【ロシア語科教員インタビュー〈前編〉】

f:id:tufs_russialove:20210613123426p:plain

 

● 前田和泉/MAEDA Izumi

東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科 卒業、東京大学大学院人文科学研究科欧米系文化研究専攻スラヴ語スラヴ文学専門修了。現在、NHK Eテレでロシア語講座『ロシアゴスキー』の講師(及び声の出演)も務めている。最近出版された訳書にミハイル・レールモントフ詩, ミハイル・ヴルーベリ絵『デーモン』(ECRIT, 2020年, 単訳)がある。

  

f:id:tufs_russialove:20210613113637p:plain

 

学生時代

 なぜ外大のロシア語科を選ばれたのですか?

まず、家が裕福だったわけではないので、国立志望でした。

皆さんは、千野栄一先生はご存知でしょうか?彼の「外国語上達法」という当時ベストセラーになった本を読んだときに、奥付に「東京外国語大学」と書いてあって、この大学のことを初めて知りました。もともと、言語や海外の文化に興味があったこともあり、外大を目指すようになりました。これが外大を選んだ経緯です。

なぜ、ロシア語にしたかというのは…よく覚えていませんが、なんとなくです(笑) 実は、最初からロシアが大好きというわけではありませんでした。当時は、ちょうどペレストロイカの時期で、全世界的に「ソ連ではこれから面白いことが起こるぞ」という雰囲気になっていたのもあります。あと、高校時代にドストエフスキーなどのロシア文学を読んでいたこともあります。

それと、西ヨーロッパのキラキラしているメインストリームの言語はあえて選びたくありませんでした(笑)

 

多くのロシア語科の学生は、まさか先生が「なんとなく」でロシア語を選んでいたとは思っていないと思います!そこまでは、ごく普通の外大生だったんですね。

そうそう。何か期待していたわけでもないけど、入ってから面白い発見がどんどんと現れて、気が付いたら沼にハマっていました。

 

「自分は専攻言語へのこだわりが弱い」と入学当初不安になる外大生も少なからずいると思うのですが、先生の今のお話でそのような学生も勇気をもらえると思います。

ほんとその通り!ロシア語科の場合は、逆に「ロシア大好き!」って言って入ってくると、「ロシアは好きだけど、ロシア語の難しさに心が折れる」というケースが結構あったりしますから、ロシア語へのこだわりがあまりない方が、入ってから伸びる気はします。

 

大学生の頃はどのような学生でしたか?

一言で言うならコミュ障、今で言う陰キャでしたね(笑) そう見えない?今でも人見知りなんだけど(笑) なので、沼野(恭子)先生といるときは、大体その影に隠れて代わりに喋ってもらっています!

 

ちなみにサークルは?

ルムーク (東京外国語大学ロシア民謡研究会)にちょっと顔出してたんだけど、あまり行かなくなってしまいました。集団行動は苦手なので(笑) 自分では所属していたつもりだったけど、気づいたら除籍されていました(泣) 代わりに3年生になってから亀山先生(東京外国語大学ロシア語科卒のロシア文学者。元東京外国語大学学長、名古屋外国語大学現学長。)主催のロシア文学の読書会に参加するようになって、それが私にとってサークルのようなものでした。

 

どのようにロシア語を勉強していましたか?ロシア語はどの程度真面目に勉強していましたか?

それは結構勉強していましたよ。ロシア語の文献も自分でどんどん読んでいました。大学2年生の頃からロシアの詩を読むようになって、面白いなと思ってからは自分でガンガン読んでいました。その意味では、結構真面目に勉強していたと思います。

ただ、授業を真面目に受けていたかというと、また別です。あまり面白くないと感じていた授業は手を抜いていましたよ(笑)

授業で一生懸命勉強するというよりは、自分で読みたいものを読むというような勉強法でした。

 

「手を抜くところは抜いていた」と聞くと、なんだか親しみが湧きます。ちゃんと大学生だったんだなと。

そうですよ、ごく普通の大学生でしたよ。

 

ロシア語以外にはどのような言語や分野に取り組みましたか?

学部生時代は、ロシア語が一番面白かったので基本的にロシア語しかしませんでした。当時は、今のような教養外国語の授業はなかったんです。院生になってからは、ドイツ語やフランス語も勉強しました。

 

何か失敗談はありますか?

色々ありますよ。先程言ったロシア詩の読書会ですが、ロシア文学の勉強だけでなく、その後の飲み会も目的の一つだったんです。そこで、実は自分はお酒が強いと分かってしまって、それ以降、お酒で失敗することが結構あったんです(笑)

当時のキャンパスは西ヶ原にあったのですが、飲んでいて終電を逃してしまったときは隣の染井霊園という墓場で夜明かしをしていました。

あと、読書会を開いて下さっていた亀山郁夫先生に、一度だけ飲みすぎて介抱させてしまったことがあります(笑) その後、亀山先生には「前田さんはお酒ダメだから!」と言われてしまいました(笑)

 

こういうエピソードを聞きたい人はたくさんいると思います(笑)

次の質問です。学部・院生時代の留学経験はありますか?

当時はやっぱり今よりも留学するのがすごく大変で、学部時代はまったくロシアに行ったことがありませんでした。大学院の博士後期課程にいた時に、2年間モスクワ大学に行ったのが私の初ロシア体験です。当時の私は海外自体まだ二度目なのに、ロシアでいきなり2年間長期留学するの!?って感じでした。

 

―二回目でいきなりロシア留学はすごいですね。

そう、だから右も左もわからないし、アエロフロート(ロシアの民間航空会社) が超ボロかった(笑) 飛行機もシェレメーチェヴォ空港も、今は改装されて綺麗になりましたが、当時はすごく暗くてまだ共産主義の名残を感じました。なんか下手なことしたら逮捕されるんじゃないかというような暗さを湛えた空港で、大変ビビりながら行ったのを覚えています。

 

なぜモスクワを選んだのですか?

首都だったし一番有名だったからです。でも、そもそも選択肢がなかったんですよね。今だったらロシア人文大などいろいろな大学がありますが、当時は大学に関する情報すらもなかったし、ロシアで知っている大学といえばあとはサンクト・ペテルブルク大くらいでした。

 

そうなんですね。ロシアの第一印象はどんな感じでしたか?

暗くて怖くて大丈夫かなといった感じですかね。本当に右も左もわからない状態で行ったんです。着いた次の日にとりあえずモスクワ大学のキャンパスに行きました。これがとっても広いのね!色んな建物があって、どこへ行ったらいいのかさっぱりわかりませんでした。向こう(ロシア)に行くと分かると思うけれど、手続きが本当に面倒くさいの。あっちこっちたらい回しにされて、こっちで払い込みをして行列に並び、領収書を持ってあっちに行く…という感じで途方に暮れていました。その時、アジア系の男の子2人が通りかかったので、ロシア語で声を掛けたところ、その方々がたまたま日本からの留学生だったんです。何か用事があったかもしれないのに、その日半日ずっと見ず知らずの私に付き合ってくださって、どこへ行けばいいのか細かく教えてくださったおかげで、手続も無事済みました。それがなかったら私あそこで行き倒れてたんじゃないかと思うくらい。お礼は言ったんですが、名前すら教えてくれなくて、「こういう時はお互い様なので」と言ってそのまま去っていきました。すごくかっこいい2人でした。

 

すごくかっこいいですね!

本当にあの2人には今でもすごく感謝していて、名前もちゃんと聞いておけばよかったと思います。そういうことがあったので、私も困っている人がいたら助けてあげたいなと思いながら2年間過ごしました。

 

すごく素敵な出会いですね。

はい。ロシアは怖かったんだけど、困っていたら助けてくれる人もいる国なんだなというのがだんだんわかってきましたね。

 

留学中の一番の思い出は何ですか? 

色々あるんだけど、ホームステイ先のおばあちゃんが作ってくれたご飯が超美味しかったこと!これが一番の思い出で、そのおばあちゃんのキャラクターも含めてずっと心に残っています。あまりにも美味しかったが故に、9キロ太りました(笑) 留学後に会った友達が見てはいけないものを見てしまったかのようなリアクションをしていました。私はちょっとやばい領域に入りつつあると自覚してその後ダイエットしました(笑) そういう後日談も含めて、美味しい料理を今でも思い出します。当時は美味しいレストランとかがあまりなかったので、手料理が一番でした。今でもロシアですごく高級で美味しいレストランに行っても、あの時のおばあちゃんの手料理にかなうロシア料理はないと私は思っています。

 

ちなみに特に美味しかった料理や、一番印象に残っている料理はありますか?

ボルシチとかごく普通の料理が美味しかったです。あとはプロフというウズベキスタンの料理も美味しかったです。多彩な料理を作ってくれました。

 

へえ~~すごいですね!!

あと印象に残っている料理としては…そのおばあちゃんがいたずら心のある方で、ある時白いフニャフニャした料理が出てきて「これ何?」と聞いたら、「ふふ~ん」とか言って教えてくれないわけ(笑) 「まあ、とりあえず食べてみなよ」と言われて、何だろうって思いながら食べたら結構美味しかったんです。白子みたいな感じの食感の料理で、「美味しい!これ何?」と聞いたら、それが牛の脳みそだったの(笑) びっくりしたんだけど、実は私ゲテモノ料理が割と得意でね。「あっそうなんだ~」とリアクションしたら、おばあさんとしてはもっとびっくりするのを期待していたらしくてちょっとがっかりされたので、なんか申し訳ないなと思いました(笑) やっぱりそのおばあちゃん絡みの思い出が一番多いかな。

  

ツヴェターエワと共に

次に、研究についての質問です。何について研究されていますか。

20世紀のロシア詩が専門で、その中での主題はマリーナ・ツヴェターエワ (Марина Цветаева, 1892-1941 恋愛に関する機知と情熱、憂愁に満ちた作品を多数詠んだ。)という詩人です。学部の卒論も修士・博士論文も全部彼女で書いたので、私の一番の原点になっている作家です。

 

マリーナ・ツヴェターエワ 、調べてみましたが、壮絶な人生を送ったようですね。 

その通り。すごく壮絶なんですよ。そういうところを含め、彼女の人生やキャラクターは面白いし、なによりすごい作品をたくさん書いているんです。この人を研究するだけで、博士課程までかかってしまったという感じです。

 

そうなんですね。では、どのような経緯で現在の職業に辿り着いたのでしょうか。

研究者になりたいと思ったのは、亀山郁夫先生に出会ったことが大きかったです。今は「ドストエフスキーの人」っていうイメージがあるかもしれませんが、当時は20世紀ロシア詩もやっていらしてました。先程言ったように、先生の主催するロシア詩の読書会に参加していた訳ですが、亀山先生のキャラクターがあまりにも面白かったんです。「こういう人って何かいいなぁ」と思い、何となく「私も亀山先生みたいになりたい」って考えたのが原点でしたかね。そこから大学院に進んで、研究を続けて、自然と大学教員を目指すようになったという流れです。

 

大学教員になるまでの中で、挫折経験のようなものはありましたか。

そりゃあ、もう挫折だらけでしたよ。これは挫折といえるかは分からないですけど、大学院を出てからまずは非常勤講師をやっていました。非常勤は非正規雇用になる訳ですよ。一年ごとの契約で給料も安いのですが、大学院出た頃は考えが甘くて、「大学院出て2,3年…まあ4,5年したら専門の職につけるかな」って思っていました。でも、やっぱり就職状況は厳しくてなかなか専任のポストが決まらず、結局私は10年間非常勤で働きました。先が見えない辛さがいつもあって、その時期が一番きつかったです。大学の職に就くには、大学の方から「こういうポストがあります」という公募があって、そこに応募して採用される必要があるのですが、何度も落ちましたし、そもそも当時はあまり募集が出ていなかった時期だったので、1年間ロシア語関係のポストの公募自体出なかった年もありました。本当になかなか決まらなくって、その時期が本当に本当に辛かった。今思い出しても涙が出るくらい。やめようかなって思うことも何度もあったし、精神的にはかなり厳しい時期でした。

ただ、そういう中でも自分なりにやりたいことはありました。ツヴェターエワを研究して博士論文まで書いたものの、主にしていたのは作品分析でした。 それだけではなく、彼女の人となり=「人間ツヴェターエワ」を書きたいという思いが博士論文を書き終わった後にもあったので、非常勤をしながら彼女の評伝をちまちま書いていました。非常勤の仕事で忙しく、執筆はなかなか進まなくて、まとまった時間がとれるのは夏休みと春休みくらいしかなかったんですけど、その時期を使って書き溜めていました。先ほどもお話ししたように仕事も決まらなかった時期だったので辛かったですけれども、「これを書ききるまで私はやめられないし、死ねないわ」ってずっと思いながらやっていました。た、最初のころは非常勤だけでは食べてはいけなかったので、昼間は東大などの大学でロシア語を教えて、夜はウエイターとしてお皿を運んだりしていましたよ。常勤になるまでは非常にしんどい時期でしたが、その時に私を支えてくれたのはツヴェターエワと、非常勤で教えていた学生さんたちでした。生活自体は厳しかったのですが、教えること、教えていた学生さんとお話しすることはすごく楽しかったので、学生さんたちにも相当救われていたなぁと思います。そして、なんとか10年間生き延びて、母校である外語大に就職することができて今に至るっていう感じですね。「研究職は大変よ!」という話です(笑)

 

そうだったんですね。これほど研究職が大変だとは想像していませんでした。 

研究職やっている人間にとってはこれくらい当たり前っていう感じなので、多分こういう経験は私だけのものではないですよ(笑)

 

そうですか。しかし、研究職が過酷であるということによりも、前田先生がここまで過酷なことをしていたっていうことに驚いているような気がします(笑)

そう…見えないよね(笑) もっと暢気に生きているように見えるかな(笑) 多分、あと1,2年のうちに専任のポストが決まらなかったら辞めていたかもしれません。

 

その中で、研究職以外の道を考えたことってありましたか。

あります、あります。起業しようと思っていたんですよ(笑) この時には既に30代になっていましたし、文系の大学院で文学専攻の人間が今更民間企業に勤めようとするのって無理でしょう。だったら、「自分で会社起こすしかないよね」って考えたんです。その頃は『会社の作り方』とか『株で稼ぐ方法』というような本を読んだりしてました(笑) また、体力的には自信があったので、肉体労働をするのもいいかなと思っていました。研究職じゃなかったら何してたかなぁ…。

 

前田先生ご自身は、研究者として今後挑戦したいことはありますか。

ツヴェターエワの翻訳を出したいとずっと思っています。評伝を出すことは出来たんですが、翻訳を出してほしいっていうお話を、読者の方やロシア詩に興味がある方から聞くことも結構多いですし。訳自体はそれなりに溜まってはいて、原稿を作れば出版してくれるという状態です。あまり時間がない状態が続いているのですが、やるなら本腰を入れてしっかりしたものを必ず出したいと考えています。

また、一般の読者にロシア詩の魅力を伝えるような仕事もしていきたいです。研究者として、ロシア詩の魅力をきちんと言語化したいという気持ちを一番の基盤としているので、そこを突き詰めていきたいです。そのためには、もっともっと色々勉強しないといけないこともあります。単にロシア語やロシア文学だけではなく、場合によっては心理学や脳科学といった範囲にまで踏み込んで、もっともっと多角的にロシア詩を極める。これが、研究者としての今後の目標です。

  

取材・執筆担当:長谷川公樹(3年)、矢田安曇(2年)、市薗雅貴(2年)

 

↓インタビュー後編はこちら

tufs-russialove.hatenablog.com