東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

あの人は何等官?よく聞く官等表って何?

Всем здравствуйте!(フシェム ズドラーストヴイチェ)みなさんこんにちは!

 

こんにちは!なつほです!

東京も寒くなってきましたね!私は寒いのが超苦手なので鬱々としています。暖かい部屋でアイスを食べて元気を出しましょう♪

 

さてさて今回は、今後の歴史の勉強や小説を読む際に役に立つ…かもしれない、ロシア帝国の官吏について書きたいと思います!

 

古めのロシア文学を読んでいると、よく「私は○等官で…」とか、「この人物は○等官でありながら…」とか、位階についての文が出てきませんか?

先日ゴーゴリの『死せる魂』を読んだのですが、そこにも「六等官パーヴェル・イワノーヴィチ・チチコフ…」、「騎兵二等大尉の…」のように官位の記載があります。

同じくゴーゴリの『外套』の主人公は九等官で清書の仕事をしています。

 

(今回のブログとは全然関係がないのですが、この映像作品とっても素敵なので視聴してみてください!)

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このように、人物の社会的地位の表現としてよく目にするのですが、官等表が頭に入っていない私は、いつも「この人は偉いのかな?そうでもないのかな?」とその人物の社会的立場を理解しないまま読み進めてしまいます(笑)

また、皇帝と貴族との関係や支配層の活動について考えるときに、その人物がどのような立場にいたのかを理解する際にも、官等表の理解が役に立つかもしれません!

文学のみならず、ロシア帝国史や人物史でも目にするので、ちょっと官等表を見てみましょう!

 

【官等表табель о рангахとは?】

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Табель о рангах Петра 1 (1722-1917)

 

ピョートル大帝の政治改革の一環として、1722年に導入され、時の皇帝によって変容を遂げながらも革命まで存在し続けました。

帝国の官僚制度の基礎となった制度ですが、皇帝の急進的な改革の中で導入されたため、当時のロシア社会やロシア人の伝統的思想に深く根を張った制度ではありませんでした。それまでの門地制(家柄を重視する制度)に代わって、それぞれの才能と国家/皇帝に対する功労に応じて等級が与えられるようになりました。門地と官位が切り離され、下級貴族であっても昇進したり、貴族の生まれでない人も貴族になれるようになりました。貴族を改革の担い手にしようとしていたピョートル大帝は、貴族出身ではなくても優秀な人材を取り立てていく仕組みをつくったのです。

 

全体として14のランクがあり、14位が最も低く1位が最も高いです。5位から1位に就くには皇帝による承認が必要でした。

制定当時、官等表に記載されているポストに就いたすべての官僚は貴族となり、14等で「貴族的諸特権享受の最低条件」を付与され、文官は8等官・武官は12等で世襲貴族になることができました(ということは、アカーキー・アカーキエヴィッチは世襲貴族一歩手前…まじか…)。

貧しい生まれでも頑張って働けば特権階級である貴族になれる、逆に貴族家系の生まれでも国家に奉仕しなければ社会的地位が低下してしまう…。ここから「ロシア社会の垂直的流動化」が始まりました。

 

しかし、いくら皇帝の改革といっても、急速な変化には反発がつきものです。

改革前から貴族であった人々の中には「卑しい」人々を自分たちから区分し、古くからの貴族の利益と権利を擁護しようとする人たちもいました。収入が安定し生活が保障されている貴族とは違い、「卑しく貧困な者」たちは国庫を掠奪したり民衆に対して好き勝手に振舞うという意見もありました(あくまである貴族の主観です)。能力重視の制度を設けた社会でも、やはり家柄は重視されていたのですね。特に導入当初は貴族の格を農奴の数や領土の大きさで計る価値観が優勢だったために、富裕層は他者を「卑しい」と見る傾向が強かったのかもしれません。

また、このシステムは、庶民からみれば上流階級の世界で起こっていることであり、官吏に支配される立場の人々からの共感を得られた訳ではありませんでした。特に下級の官吏には侮辱的なあだ名が付けられました。

 

「貴族」にもいろいろな種類がありました。裕福な高官もいれば官位を持たない貧乏な貴族もおり、貧富の差は非常に大きかったそうです。ピョートル大帝の孫の妻であるエカテリーナ2世の時代の統計では、男子農奴所有30人以下が全体の62%、30~99人が21%、100人以上が16%、1000人以上が1%でした。当時、いわゆる貴族的な生活を送るには50~500人の農奴所有が必要でしたが、その規模の農奴を持っている貴族は全体の3分の1ほどでした。農奴を所有するにもお金がかかるので、国家に勤務しながら領地や農奴の管理をするとなると、当時の貴族は意外と忙しかったのかもしれませんね。

 

先ほど頑張れば昇給のチャンスがあるというお話をしましたが、貧困のために教育を受けることができず、ひたすら働く人たちが大勢いました。一方、上流貴族は彼らの家柄にふさわしい官位を求め、富と教育によってそれを手に入れました。教育を受けることも功労の一つとして考えられていたので、様々な事情で教育を受けられない人は苦しい立場に置かれました。教育格差は古今東西関わらず社会の大きな課題ですね。

 

さて、この時代、国家への功労という文脈で想定されているアクターはやはり男性ですよね。では女性はどのような扱いを受けたのでしょうか?

官等表の付属条項の一部には、このような文言が付いています。

「既婚女性は全員、彼女の夫の官等に基づく官等において振舞うべし、そして彼女たちがこの原則に反する行動をする時には、彼女の夫が自分の犯罪ゆえに支払う義務を負うのと同様に罰金を支払うことになるだろう。」

 

称号は夫から与えられたものであり、女性も夫の官位にふさわしい行動を求められていたんですね。女性の立場についてはまだまだ勉強不足でわからないことが多いのですが、エカチェリーナ2世の時代には、特権認可状において「貴族人女性は非貴族に嫁いでも自分の地位を失うことない。」という記載があります。彼女の夫(非貴族)と子供には貴族の称号を与えることはできないのですが、家ではなく個人のものとして称号が認められていた様子がうかがえます。

 

さて、今回は官等表や位階についてざっくりと説明しましたが、いかがでしたか?

少しでも皆さんのお役に立てたなら嬉しいです!

 

それでは、До свидания!(ダ スヴィダーニヤ)(さようなら!)

 

文責:なつほ

 

参考:

  • 佐々木弘明、「18世紀中葉ロシアにおける貴族の解放の過程と教育」、最終閲覧日11月5日
  • 鈴木淳一・飯島由大、「フェドシューク『古代作家の難解なところあるいは19世紀ロシアの生活百科』(その7)」:第6章「官等と称号」、最終閲覧日11月5日
  • 改定新版 世界大百科事典、「ロシア帝国」

 

今日のロシア語

табель о рангах(ターベリ ア ランガフ)

意味:官等表

аристократ (アリスタクラート)

意味:貴族