東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

ソ連時代の少女が書いた「レーナの日記」を読む―「アンネの日記」との比較を添えて―

f:id:tufs_russialove:20201228180532p:plain

こんにちは、Rです。全くの偶然なのですが、好きなYoutuberさんと名前が被っていることに最近気付いてしまいました。恐れ多いです。

 

先日、図書館で見つけた本がとても興味深かったため、今日はその本の紹介をします。

「レーナの日記」という、みすず書房から2017年に出された本です。

レーナの日記

レーナの日記

 

 

ちなみに、底本(ロシア語)のタイトルは

«...Сохрани мою печальную историю...»: Блокадный дневник Лены Мухиной

(私の悲しみを大切にしまっておいて―レーナ・ムーヒナの封鎖下の日記)です。

 

① 『レーナの日記』について

「レーナの日記」とはどのような性質を持つ日記なのでしょうか?

そもそもレーナがどのような人物なのかというところから始めましょう。

 

彼女の本名はエレーナ・ウラジーミロヴナ・ムーヒナ。1924年ウファに生まれ、その後レニングラード(現・サンクトペテルブルク)に移住し、少女時代をレニングラードで送りました。そして、1941年、第二次世界大戦独ソ戦)が始まったときにも彼女はレニングラードで暮しており、そこでレニングラード封鎖を経験しました。

 

これはあまり日本では知られていない出来事ですが、第二次世界大戦中、レニングラードはドイツ軍によって872日間も包囲されていました。この出来事をレニングラード封鎖といいます。氷上道路を作ったり、飛行機を利用したりと、いくつか抜け道は存在したようですが、そのような例外を除いて、基本的にレニングラードは街全体をドイツ軍に囲まれており、補給経路が絶たれていました。この封鎖によって、レニングラードではおびただしい数の餓死者が発生したと言われています。

レニングラード封鎖下において特に食事情が劣悪であったのが、1941年の冬のようです。パンの配給量が最も少なかったのは1941年の11月で、事務職員・被扶養者・子供に対する配給量は一人あたり125グラムでした。(グラム表記だと分かりにくいですが、およそパン3スライス分くらいです。それも、かさ増しのためにかなり不純物が混ざっていたようです)

レーナは過酷な1941年の冬を乗り越え(なお、同居していた家族は亡くなってしまいます)、翌年1942年の6月頃に親戚の住むゴーリキー市(現・ニジニ・ノーヴゴロド)へ疎開し、製粉所や機械工場の職員として、また別の時期にはデザイナーとして働き、1991年にモスクワで亡くなりました。

 

「レーナの日記」は、先ほど述べた通り、壮絶な環境のもとで書かれた日記です。日記は1941年5月22日に始まり、1942年5月25日に終わっています。当時のレーナの年齢は16歳です。

毎日食べ物を求めて捜し歩くさま、また、共に暮らす家族が痩せ細り、死んでゆくさまが記述されています。

 

今日は異常に気分が悪い。胸がむかむかして、むかむかして、心が重くて、何もかも忘れて眠ってしまいたい。寒い、絶えず空腹にさいなまれている。寒い。これは恐ろしいことだ。もしも暖かかったら、こんな苦しみも不自由さも半減するのに。(『レーナの日記』pp191-192)

 

② 『アンネの日記』について

ところで、少女の書いた日記といえば、アンネの日記が最も有名ではないでしょうか?

そこで、「アンネの日記」と「レーナの日記」を比較し、共通点と相違点を探ってみたいと思います。

 

アンネの日記」は、1942年の6月12日に始まります。この日はアンネの13歳の誕生日でした。そして、1944年の8月1日に終わります。彼女の「隠れ家」生活が終焉を迎えたからです。「アンネの日記」の最大の特徴は、ヒトラーユダヤ人弾圧政策から逃れるために、父親の事務所に作られた「隠れ家」に身を寄せ、自分の家族や他のユダヤ人一家と共同生活を送る様子が記述されていることです。

また、お転婆で勝気だった少女が次第に精神的に成長していくのも、この日記が愛される要因の一つだと思います。日記の中で、自分は作家になりたい、とアンネは書いていますが、もし戦争を生き延びていたら、素敵な作家になっていたに違いありません。

 

③ 二つの日記の比較

比較1:外を歩き回るレーナ、常に家にいるアンネ。それぞれの少女が置かれた環境

 

レーナは、養母(戸籍上は伯母)と家庭教師(あるいは家政婦?)の女性との3人暮らしをしていましたが、1941年の冬に二人とも亡くなり、一人ぼっちになってしまいます。養母を亡くしたとき、彼女は日記にその悲しみを綴っています。

レニングラードのレーナは、食べ物を求めるために、ある時は働くために、またある時は大人に助けを求めるために、とにかく外へ出かける必要がありました。特に、日記中盤(1942年の2月)以降、保護者を亡くしてしまったレーナは、身の回りのことを全て自分でこなさなくては生きていけませんでした。ただ、日記の終わり頃(1942年の5月あたり)になると、栄養失調のために歩くのもままならなかったようで、家でじっとしていることが多くなっています。

 

一方で、隠れ家に住むアンネは、当然ですが、常に家の中にいなくてはなりません。アンネの隠れ家も決して食糧事情が良いとは言えませんが、それほど飢えを感じずに済んだのは、ずっと家の中におり活動量が少ないからでもあるのでしょう。また、基本的に決まった時間に三食、量が少ないだとか、偏ったものしか出ないだとかいった不満はあるにせよ、確実に食べられるという保障があったというのも大きいですね。

 

比較2:少女の成長

 

まず、前提として、『レーナの日記』は16歳から17歳にかけて書かれた日記であること、一方『アンネの日記』は13歳から15歳にかけて書かれた日記であることを頭に入れる必要があります。単純にこの二つを比べると、どうしてもアンネが幼く見えてしまうかもしれませんが、事実、実年齢が幼いのでそれは仕方ありません。

しかし、どちらの少女も、日記を書く前後で、精神的に成長を遂げています。ただ、その成長の要因は異なります。もちろん、おおざっぱに捉えればどちらも第二次世界大戦が原因ということにはなりますが…。

 

レーナの精神的成長の最大の要因は、おそらく、母親(正確には養母)の死にあります。無償の愛を捧げてくれる存在がいかに貴重であったか、そして、それをごく当然のものと捉えていた過去の自分がいかに未熟であったか。失って初めて気付く大切さ、とよく言いますが、レーナもまた、肉親を失うことでひとつ成長しました。

 

一方で、アンネは「隠れ家」が見つかる日までずっと家族と共に過ごしています。アンネが精神的に成長した最大の要因は、個人的には、「日記を書く」という行為にあるのではないかと思います。自分について、家族について、隠れ家で共に暮らす別の家族について、目にしたこと、感じたことを日記に書きとめ、時には見返すことで、自分自身や身の回りの人物、事象について客観的に捉える力がついたのではないでしょうか。

また、「隠れ家」生活は基本的に暇なので、学校生活を送っていたころより物事を深く考える時間や読書の時間が増えたことも影響しているかもしれません。さらに、常に家族と一緒なので、その分衝突(特に母親と)が増え、自分と親との関係について考えざるを得なかったことや、ペーター(同居していたユダヤ人家族の息子)との友情や恋愛も彼女を大きく成長させたはずです。

 

二人とも精神的に成長したのは確かなのですが、「どのように?」という点においてはかなり異なっていると思います。日記を読み比べたとき、私はふと、マズローの欲求階層説を思い浮かべました。

f:id:tufs_russialove:20201228183310p:plain

レーナは第一段階である生理的欲求(食欲)が満たされていない場合が多いため、常に食べ物のことを第一に考えています。母亡きあと、彼女は文字通り一人ぼっちになってしまいますが、そのような状況におかれた彼女にとって、自立は生きるために必要不可欠でした。悩む間もなく彼女は大人にならざるを得なかったというのが正しいのかもしれません。

 

アンネの場合、第一段階の生理的欲求はクリアしています。第二段階の安全欲求(安全な場所に住みたい)は満たしているか怪しいものの、第三段階の親和欲求(他者と関わりたい)、第四段階の承認欲求(他者から価値ある存在と認められたい)に由来する悩みが日記にしばしば現れます。さらには、これらの欲求を全て満たした先に存在する自己実現欲求まで現れます。

生活は大きく制限されていたものの、レーナと比べると、アンネの方が、現代の私たちに近い、いかにも思春期の少女らしいその時期特有の悩みを抱え、成長していったように感じます。

 

比較3:万国共通?少女たちの抱える孤独

 

これら二つの日記を読んでいて、個人的に面白いなあと感じたのは、レーナとアンネは対照的な性格の持ち主であるにも関わらず、二人とも「親友がいない」という、共通した孤独を抱えていることです。

 

 新しい人が、新しい出会いが、新しいものが欲しい。何か新しいものが。でもそんなものはないし、手に入れることもできない。今すぐどこか遠くへ、だれにも会わずに、だれの声も聞かずにすむような遠く彼方へ逃げてしまいたい。だれもいない所へ。ちがう。わたしは自分のことを愛してくれる親友のところへ行って、この悲しみを打ち明けたい。一つ残らず彼女に打ち明けてしまいたい。そうしたら楽になれるだろう。

 でもだれもいない、わたしは孤独だ。それにだれも、こんなこと言えやしない。

(『レーナの日記』p21, 傍線はブログ執筆者による)

 

 というわけで、いよいよ問題の核心、わたしがなぜ日記をつけはじめるかという理由についてですけど、それはつまり、そういうほんとうのお友達がわたしにはいないからなんです。

 もっとはっきり言いましょう。十三歳の女の子が、この世でまったくひとりぼっちのように感じている、いや、事実、ひとりぼっちなんだと言っても、信じてくれるひとはいないでしょうから。わたしには、愛する両親と、十六歳のお姉さんがいます。

 (中略)

 そう、なにひとつ欠けてるものなんかなさそうです。ただひとつ、その”ほんとうの“お友達を除いては(『アンネの日記』p21, 傍線はブログ執筆者による)

 

引用した二つの文章は、いずれも二人の身の回りの環境が悪化する前に書かれたものです。ですので、学校に通うごく普通の少女たちが、生まれ育った環境も、性格も異なるのに、同じような悩み―ほんとうの気持ちを打ち明けられるような心からの友がいない―を抱えているというわけです。このような悩みは、現代における思春期の少女たちにおいても(それ以外の人たちもそうかもしれませんが)、共感できるものではないでしょうか?

 

④ おわりに

以上、ごく簡単にではありますが、二つの日記を比較してみました。どちらの日記も、ただ歴史学者が史料として扱うには忍びない、読み物としての面白さがありますので、まだ読んだことのない方は是非読んでみてください!!

また、個人的には、記事を書くにあたって今までほとんどその実情を知らなかったレニングラード封鎖について知ることができ、大変勉強になりました。

余談ですが、ブログ記事の執筆中に『レーナの日記』とはまた別の、『ニーナの日記』ソ連の女子学生が1937年~1942年にかけて書いた日記)という本を図書館で偶然見つけました。彼女はモスクワに住んでいましたが、第二次世界大戦で命を落としています。ソ連共産党の活動や彼女の読書記録(主にソ連の作家)についての記述がよく出てくるため、その辺りに興味がある方は面白く読めると思います。

 

 文責:R 

 

*今日のロシア語*

дневник(ドゥネーヴニク)

 意味:日記

 

【参考図書】

エレーナ・ムーヒナ(佐々木寛・吉原深知子訳)『レーナの日記』, みすず書房, 2017年.

アンネ・フランク深町眞理子訳)『アンネの日記 増補新訂版』, 文芸春秋, 2003年.

マイケル・ジョーンズ(松本幸重訳)『レニングラード封鎖 飢餓と非情の都市1941-1944』, 白水社, 2013年.

(なお、この本ではレーナの日記について言及されていません(おそらく、間に合わなかったから?)が、他のレニングラード市民の日記からの引用が多数紹介されています。日記単独での邦訳はありませんが、レニングラード封鎖を扱った別の書籍『ドキュメント:封鎖・飢餓・人間 1941→1944年のレニングラード』(原題『封鎖の書』、1986、新時代社)でも日記がいくつか紹介されています)

 

【参考リンク】注:ロシア語のサイトに飛びます

https://antennadaily.ru/2020/01/18/blokada-3/ (レーナの日記について)

https://tass.ru/obschestvo/7561895?utm_source=pikabu.ru&utm_medium=referral&utm_campaign=pikabu_teaser   (タス通信の記事、第二次世界大戦中に書かれた少女たちの日記をいくつか紹介している)

https://kulturologia.ru/blogs/090517/34476/

レニングラード封鎖について)

http://victory.rusarchives.ru/tematicheskiy-katalog/leningradskaya-blokada