東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

「伊豆の踊子」&「犬を連れた奥さん」比較小論考

こんにちは!トモヒトです!

暑い日が続きますね!

 

なーんてありきたりな挨拶をしていると、日本人の季節、気候、自然に対する敏感さを感じずにはいられません。逆に、海外では主流の「調子どう?」的な導入は日本語にあまり見られないなあと感じたり(笑)母国語が違うだけで虹の色の数が違って見えるように、異国語を話す人々の頭の中には、我々のあずかり知らぬ世界が広がっているのです。

 

さて、『犬を連れた奥さん』は、20世紀後半の偉大なロシア短編小説家・劇作家のチェーホフ(А. П. Чехов)の代表作で、ロシア人ご用達の保養地・クリミアはヤルタで休養する二人の男女の不倫劇を描いた短編です。執筆動機は、『犬を連れた奥さん』を読んでいた時、保養地でのひとときをともにする男女を描いた作品として伊豆の踊子が思い起こされたことです。ふと、この二つの短編小説を比較してみたら面白いんじゃないか、と想像を逞しくしました。

 

伊豆の踊子』は読了しているものとして書き進めていきます。

↓まだ読んだことがない、あらすじを忘れてしまった方はこちら

伊豆の踊子 - Wikipedia

 

『犬を連れた奥さん』あらすじ

 モスクワに妻と子供三人を抱えるドミートリ―・ドミートリチ・グーロフは、野暮な細君を敬遠してヤルタに逃れて二週間たった頃、海岸通りに現れた既婚の婦人、アンナ・セルゲーエヴナに声をかける。グーロフは、自分の娘ほどの年齢のアンナのぎこちなさ、いじらしさに、それまで経験してきた数々の女性との情事やロマンスを思い出していた。

 保養地から帰った後、モスクワでの安定した愉快な暮らしのなかにあって、ヤルタで別れたはずのアンナ・セルゲーエヴナに対する自身の不覚なる恋患いに気づいたグーロフは、アンナの住むS市に住所も知らず向かった。果たして、初演物の休憩時間に突然目の前に現れてアンナを驚かせたグーロフは、彼女から逢引きの言質をとりつける。

 モスクワの「スラビャンスキー・バザール」ホテルにグーロフが到着するや否や、二人は永いキスを交わした。生まれてからかつて一度も女を愛したことのなかったグーロフは、自身の悲しみと喜び、そして幸せのすべてである目の前の平凡な女と愛し合い赦し合いながら、深い憐れみを感じて、ひたすら誠実でやさしくありたいという願いを抱いた。

  

伊豆とヤルタ

 警備の観点から好都合とされて第二次世界大戦の戦後処理を決める首脳会談の開催地にされたヤルタは、旧くからロシア(ソ連)国民に愛される代表的な避暑地でした。ヤルタの含まれるクリミアは、東欧諸国が正教を受容するきっかけとなったヴラジーミル大公の受洗が行われたケルソネソスを抱えるほか、ロシアの黒海艦隊が配備されていたりします。たびたび政治的な係争地となってきた歴史をもっており、周辺地域の人々にとって独特の意味合いをもった地です。

 ヤルタがロシア(ソ連)を代表する保養地とすれば、日本のそれの一つはまさしく伊豆といえます。ヤルタが極東からバルト海沿岸の人々にまで広範な知名度と人気を獲得しており、唯一性も兼ね備えている(ロシアには南部以外にほとんど保養地が存在しない)のに比べれば伊豆の格が霞んで見えるようにも思われますが、伊豆もまた日本の多くの人々に追懐を促す神秘的な土地であり、それぞれの地に独りで向かった「私」とグーロフにはともに、満たされなければならなかった何らかの心的な穴隙を観測することができると思います。それは「私」の場合であれば「孤児根性」であり、グーロフの場合であれば、「『やさしさ』の欠如」です。

 

踊り子とアンナ

 二つの小説で描かれる二人のヒロインには、分かりやすい共通点があります。それは、「初々しさ」という点です。

 アンナは既に嫁いだ身であるものの非常に若く、グーロフとの会話にも気後れや角のとれていない様を見せたり、好奇心を駆られるものに一心になったり、情事に対して徹底した罪悪感を抱いたりと幼さを端々に感じさせる女性です。そうした幼さが、グーロフがそれまで遊んできたその他の女性と違う点であり、モスクワにいて尚グーロフに恋慕を抱かせ続けた所以なのです。

 踊り子もまた、グーロフがアンナにそうしたように、「私」によって「子供」認定されています。浴場で真っ裸ではしゃぐ姿、講読本の読み聞かせに瞬き一つせずに読み手の額を見つめる仕草、「私」との別れに際して物も言わなくなるような様は、非常な純朴さの表れです。こうした踊子の姿の数々に、「私」は度々胸に満たされるものを感じていたのです。

 幼く清純無垢な女性との出会いが男をして温かな人情に目覚めさせるという基本的な物語構造が、二つの小説には共通して採用されています。

 

 

文学批評ができる知識の積み重ねがある訳でも、男女の恋愛の妙を心得ている訳でもないのでこれくらいしか書くことはなかったのですが、執筆動機となった一つの引っ掛かりが確かに妥当なものであったと納得できるくらいには、比較・鑑賞できたように思います。これにて筆をおかせてください。

そういえば最近、20世紀ロシア文学の最高傑作の一つ、ミハイル・ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」を読了しました。かなりの長編で、単行本にして500~600pくらいあると思いますが、なかなかの奇書っぷりでした(笑)実はこの「巨匠とブルガーコフ」を我々の大学の文化祭で語劇として披露しようとする案があったのですが、そりゃ没確定だろ、と頷かざるを得ませんでした(笑)(結局、プーシキンの「大尉の娘」を演りました。)この本についても、いずれ感想文みたいなものを書けたらいいな、と思います。

それではПока!

 

 

文責:トモヒト

 

 

*今日のロシア語*

любовная литература(リュボーヴナヤ リテラチューラ

 意味:恋愛小説

любовник(リュボーヴニク)/ любовника(リュボーヴニカ)

 意味:恋人(男性)/ 恋人(女性)