このタイトルを見て驚いた方もいらっしゃるかもしれません。
ペリーが来航したことによって日本の「鎖国」の“鎖”がゆるめられたということは皆さんご存知だと思います。
しかしその裏で何が起こっていたのか、そしてこのブログをお読みになってくださっている方はもちろんロシアのことについて知りたいとお思いでしょう。
今日お話しするのは開国期の日本がなぜアメリカの植民地にされず、しかもアメリカから一目置かれる存在にまでなったのか。そこにはロシアという国が大きく関わっていました。
そしてもしロシアが日本に興味を持っていなかったら、今の私たちもまだチョンマゲに着物という出で立ちだったかもしれません。
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さて、舞台は江戸時代の日本。まだペリーが来航するずっと前のことです。
1792年、日本にあるロシア人がやってきました。
彼の名はアダム・キリロヴィチ・ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман)。
当時、列強(アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなど)はこぞってラッコの毛皮を使ったビジネスをしようと目論んでいました。どの国がラッコ毛皮市場の主導権を握るかーーその戦いにロシアも参加していたのです。
しかしシベリアのラッコは次第に数が減ってしまいます。そこで目をつけられたのがアラスカでした。しかし当時は中露貿易がストップしてしまっていたため、アラスカに行くまでの中継地として日本はどうかという意見が出たのです。
ラクスマンは漂流民、国書、贈り物を携えて日本にやってきます。
しかも事前に日本人漂流民から日本語を学んだロシア人の日本語通訳も同行しているという徹底ぶりでした。
しかし十分な兵力もない日本は、外国と交渉をしたら確実に尻に敷かれてしまうと幕府が考えていたため、その場しのぎとして「長崎でだけ外交交渉を行っている」という旨の言葉をラクスマンに告げると、「入港証(信牌)」を渡していったん帰国させました。
しかし、ラクスマンの後継者として「入港証」と国書を携えて長崎へとやってきたレザノフ(Николай Петрович Резанов)でしたが、国交ができると期待していた彼の思いは裏切られることとなります。
「入港証」をラクスマンに渡した老中(江戸時代の実質的な権力者)はその座を退き、幕府全体としていわゆる完全な「鎖国」状態に方向を転換させてしまっていたのです。
レザノフは長い間待たされた挙句、半年後に「入港証」を取り上げられてしまいます。
苦労して日本に来たのに幕府と交渉することもできず、その努力を踏みにじられーー
どんな人もこの仕打ちには怒ることでしょう。帰国した彼は「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と皇帝に上奏します。そして武装したロシア商船で松前藩樺太出張所を攻撃します。
この攻撃によって初めて幕府は海外列強の恐ろしさを、身をもって知ることになります。
これは歴史的に見れば、アメリカの「黒船」よりもはるかに大きな意味を持つものと言われています。
そしてこの事件によって幕府はオランダ(当時長崎の“出島”を介してのみ交易を行なっていた国)から海外列強の情報を積極的に集め始めます。
そのおかげか、実は幕府は1年ほど前からペリーが来航するとわかっていたと、近年の研究では言われています。
ロシアという大国と向き合った日本は、これからも日本を訪れるであろう海外列強にどう向き合うべきかということを考えていました。
だからこそペリーが日本にやってきた時、「日本は一筋縄ではいかない国」と言わせることができたのです。アメリカやイギリスがアジア各地で行なっていたいわゆる“恫喝外交”に屈することもなかったのです。
日本はアメリカに対して「ノー」と言うことのできた唯一の国だとも言われています。
事前に様々な国際法などを学んでいたため、日本に到着した時に祝砲と称して何十発も空砲を撃ったアメリカに対しても、落ち着いた姿勢で対等な交渉を持ちかけることができたのです。
日本という国にいち早く目をつけたロシア。その後、日露和親条約が結ばれるまでに一難ありますが、それはこちらの記事をご覧ください。
『おそロシア』はもう古い!? - 東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ
今の日本人はロシアに対してあまり良いイメージを持っていないというデータもありますが、それはただ偏見でしかないと思います。ロシアのことだけを学ぶだけでは知ることのできない新たなイメージを、少しでもお届けできたでしょうか。こうした歴史を少しでも知ることでロシアのことも日本のことも、より好きになっていただければ幸いです。
以上、ぼーりゃがお送りしました!
文責:ぼーりゃ
*今日のロシア語*
Америка(アミェーリカ)
意味:アメリカ
【参考資料】
「日本滞在日記ーー1804-1805」(岩波文庫) 著者:レザノフ
http://syoshi-sai.com/2015/03/12/松平定信とラクスマン、そして幕末%E3%80%82/
「史料にみる歴史 ラクスマン来航の世界史的背景と江戸幕府『光太夫と露人蝦夷ネモロ滞居之図』」
https://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/201309/13_mssbl_2013_09_p40.pdf