シベリア抑留とスプーン
こんにちは、最近実家の車を乗り回し、時々どこかにぶつけたりなんかしちゃうフジモリです!お久しぶり!
題名はいっちょ前に「シベリア抑留とスプーン」なんて言っちゃっていますが、先日NHKのファミリーヒストリーの再放送で、シベリア抑留で現在のウズベキスタンで強制労働をさせられていたケンドーコバヤシさんの祖父について放送されていて、おもしろい!というか興味深い!と思ったので感想を書かせていただきたいと思います。
一番の感想を率直に言わせてもらうと、、
自分ウズベク語ちょっと聞き取れるのキモチワリーーーーーー!!!!!!!!!
でした、ていうのも、ウズベキスタンの現地の方に取材をするシーンがあって、ウズベク語で話されていたのですが、ちょっとした単語とかがわかったり、あと、「コレしゃべってる感じがもうウズベク語やんな」みたいに感じ取れてるのが気持ち悪かったです。英語ロシア語の勉強途中でこういうのがあるとちょっと嬉しかったりするんですけど、なぜかウズベク語は気持ち悪い。
地元に帰ってバイトとかでなにかと最近はじめましての方とお話しすることが多く、話の流れで「ロシア語とウズベク語やってます」なんて言うと、「あ?なんやねんそれ」みたいな顔をされるので手が出そうになるのをぐっとこらえる毎日ですが、そんな自分の勉強の成果に気持ち悪いと思ってしまいました、、、
って、だっせーん☆ ちゃんとシベリア抑留の話をしますね。
まずはシベリア抑留についての基本情報。もちろんWikipediaからの抜粋☆
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した[1]。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人。出典:Wikipedia
当時ソ連の一部であったウズベク共和国(現在のウズベキスタン)でも多くの日本人が強制労働を強いられていたそうです。
タシュケントにあるナヴォイ劇場が日本人労働者によって建てられ、それが大地震の時にも倒壊などがなく、それがウズベキスタンが親日国家であったりする一つの要因なんていう話は割と有名な話かなと思います。
私たち日本人が外国に行くと、国によって「アニョハセヨ」とか「ニーハオ」って言われたりするのですが、ウズベキスタンでは「コンニチハー」「アリガトー」って声掛けられるのが多かった気がします。これもナヴォイ劇場の影響かもしれないですね。
そして、ウズベク共和国の日本人労働者の一人がケンドーコバヤシさんの母方の祖父、安東髙さんでした。
ここまで読んでくださった方は自分でシベリア抑留のことを調べてくださると信じてシベリア抑留の詳しい話は省略させていただくのですが、私が最も印象に残ったのは(現地の人のウズベク語の次にね)ケンドーコバヤシさんの実家にあった、祖父が大事に使っていたというスプーン!!
だいぶ大きめのスプーンだったのですが、タシュケントにある日本人抑留者に関する資料館のようなところでも様々な形のスプーンが展示されていました。(自分も行ったけどスプーンがあったのは少しも覚えてない)
現地で支給される食事は黒パンに味の薄いスープなどで、栄養が足りず栄養失調になってしまう方もいたらしいのですが、それでも彼らにとっては食事が唯一の楽しみだったそうです。
そして、その食事の中で、スープを一滴残さず食べきるために使われたのがスプーンでした。
スプーンは工場にあった鉄くずを自分で加工したり、親しくなった現地人から譲り受けるなどして手に入れたそう。
実際にスプーンを使っていた方の話では、「スプーンが命の次に大事だった。」なんて言う言葉がありました。
スプーンが命の次に大事な理由が、容器の片隅の大しておいしいわけでもないスープをすくえるから、なんて今の私たちには到底想像できないですよね。
大体こんな感じで僕の話は終わりなのですが、こんな話を聞いて少しでも僕と同じような気持ちを感じて、今までとは違った側面からウズベキスタンやロシアを楽しんでもらえるといいな、と思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!
中央アジア料理店ディムラマの試食会(二年前)のフジモリとスプーンなんていうこの記事にピッタリな写真があったので貼らせていただきます。どうぞお納めください。
文責:フジモリ
*今日のロシア語*
ложка(ローシュカ)
意味:スプーン
театр(チアートル)
意味:劇場