東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

研究社の「露和辞典」を作った人ってどんな人?

目次

 

はじめに―

あなたは辞書を使う際に、執筆者の欄に目を向けたことはありますか?

ロシア語を学習したことのある方で、「研究社露和辞典」を知らない方はいないでしょう。万が一初めて聞いたという方は、今日この場で覚えてください。こんな辞書です。

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↑研究社露和辞典。 画像左:表紙、画像右:小口。

本文が2763頁、前書きその他を含めると2784頁。価格は税抜き7,800円ですが、1頁約3円と考えると、たいへん安い買い物です。たった一日だけ夢を味わうことのできるディズニーランドのチケットの方が私にはよっぽど高く思えます。

 

…話が逸れました。

この辞書は、1988年9月にその初版が発行されました。

まえがきによると、研究社露和辞典の編集は1961年に始まりました。なんと、27年かけて作られたのですね!

編纂を企画したきっかけは、当時のソ連が、特に科学分野において著しい発展を遂げていたために、日本人のロシア語学習者が急増したことにあるようです。最もよく知られている出来事といえば、1957年に行われたスプートニク1号の打ち上げでしょうか。(とはいえ、この辞書が完成した1988年には、既にソ連はさまざまな方面で行き詰まりを見せていましたが…。)

この膨大な分量の辞書はもちろん一人の手によって作られたわけではなく、多数の執筆者や校閲者の力が合わさって作られたものです。

 

あなたは辞書を使う際に、執筆者の欄に目を向けたことはありますか?今日のブログでは、執筆者の一人で、かつ編集者の代表であった東郷正延氏に焦点を当ててゆきます。

 

東郷正延氏について

東郷正延氏は、1908年に茨城県で生まれ、2002年に東京都世田谷区で亡くなられました。1927年に東京外国語学校の露語科に入学、31年に卒業とのことですから、2022年卒業予定の私にとって東郷氏は91年先輩にあたるわけです(!)

大学卒業後はソ連との通商に関わる仕事をされたのち、1945年まで東京陸軍幼年学校でロシア語教官を務めておられました。戦後は東京外事専門学校(外大の前身)、そして東京外国語大学で教鞭をとり、1971年に定年退職するまでその職を続けられました。

退官後も、引き続き露和辞典の編集にあたり、またロシア文学会の第六期会長を務め、日ソ学院で教鞭をとるなど非常に精力的に活動されていました。

ロシア文学会の会長に際しては、「学会の会長に選ばれたくないから選挙の間だけ退会しようとした」(東郷、2000、p240)なんてエピソードがあり、思わずクスリと笑ってしまいました。やめないでくれと説得されてしぶしぶ残ったら、結局会長をやる羽目になってしまったようです。

 

東郷先生は、東京外国語大学で学生を教え、研究をする傍ら、多数の語学書やロシア(ソ連)入門書を執筆されました。外大の図書館にもありますそのうちの何冊かは4階閲覧室にあり、簡単に手に取ることができますので、ぜひ一度お読みになってみてください。

そのうちの3冊を今日はご紹介します。

 

①「ロシア語のすすめ」1966年、講談社現代新書

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↑どうやらこの「○○語のすすめ」シリーズは英、仏、独、西、中国語版も出版されているようです。

半世紀以上前に書かれた本です。早速まえがきを少し読んでみましょう。

 

 近年ロシア語の学習を志す人々の数はまことに膨大なものがありますが、せっかくはじめたロシア語の学習を途中でやめてしまう人の数もかなりの数にのぼろうかと思います。(p5)

 

耳が痛くなるような言葉が飛び込んできます。実際、外大生のうち何割がロシア語を完全にマスターしたと言えるか分かったものではありません。

しかし、東郷先生はこう続けます。

 

 そのような方々も、この本を読むことによって新しい学習の指針がつかめるのではないかと思います。(p5)

 

なるほど。どうやら、この本の趣旨は「ちょっとロシア語をかじってみたけど放り出してしまった人、これからロシア語をやってみたいが躊躇している人、そんな人たちにロシア語の魅力を知ってもらい、ロシア語を『すすめ』る」ことのようです。

 

東郷先生はこの著作で、ロシア語を学ぶ理由は「ソ連の心を知る唯一の手掛かりであるからだ」と述べられています。ことばというものは、他者の心の中を覗き、ほんとうに考えていることがどのようなものであるか知るために必要不可欠だ、とおっしゃっています。私はこの東郷先生の考えに全面賛成いたします。このことは、ソ連がロシアになっても変わりませんし、ロシアに限らず全世界の人と交流する際に同じことが言えるでしょう。

 

本書の内容は、ロシア語の発音や文法について、ごく簡単に、教えるためではなく楽しんでもらうために紹介するものとなっています。

江戸時代にロシアに漂着した日本人、大黒屋光太夫の話だとか、シベリア抑留に際してカタコトのロシア語で乗り切った人の話だとか、「コーチェトフ」さんというロシア人の方が「わたしのなまえ、『紅茶と豆腐』です」と自己紹介した話だとか、勉強になる話から笑い話まで、なんでも詰まっています。

 

最後に、この本で紹介されているロシア人の名言を一つ載せ、本書についての話を終えます。このほかにも数多くの名言が載っておりますので、興味を持たれた方は是非お読みになってください。もっとも、この本でなくともロシア人の名言は簡単に見つけることができるはずです。取り上げたゴーリキーしかり、トルストイしかり、ロシアの文豪からは数々の名言が生まれています。

 

人生最大のたのしみ、最高のよろこびは、自分が人々に必要な人間であり、近い人間であると感ずることである。 ゴーリキー

 

Лучше наслаждение, самая высокая радость жизни ––– чувствовать себя нужным и близким людям!  М.Горький.

(ルーチシェ ナスラジュヂェーニエ、サーマヤ ヴィソーカヤ ラーダスチ ジーズニ――チューストヴァヴァチ スィビャー ヌージュヌィム イ ブリースキム リューヂャム! マクシム・ゴーリキー(日本語ルビはブログ執筆者によるもの)

 

②「ロシア語教科書Ⅰ 初級編」1972年、現代ロシア語社

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↑М.Того、というのは「マサノブ・トーゴー」のロシア語表記です。「エム・タヴォー」と読んではいけません。

先ほどの一般人向けの新書と異なり、こちらは教科書です。中・上級編もあるはずですが、リサーチ不足で見つけられておりません。

こちらもまた、まえがきである「著者のことば」から読んでみましょう。

 

 ロシア語を学ぶこと――それはロシア語のリズムを学ぶことである。

 文法は――リズムを教えてくれない。(p4)

 

 東郷先生はロシア語の音を重視しており、文法も無論大切だけれども、初学者に対しては、あれこれ詰め込むことによってロシア語のリズム感を損なわせてしまうことがもっともいけないことだ――こう考えていたようです。事実、この初級編の文章にはなんと複数形が出てきません!形動詞も副動詞も出てきません。羨ましい限りです…。

 

 このような考えから私の教科書で最も重要なのはテープであると考えている。教科書にテープが付属しているのではなくて、テープに教科書がついていると考えていただいて差支えない。(p4)

 

と、ここまでおっしゃっています。

もっとも、講読のためには、複数形はもちろんのこと形動詞・副動詞をマスターすることだって避けては通れませんから、会話に重きを置くか、文章を読むことに重きを置くか、それに合った勉強の仕方を選ぶのが良いのでしょうね。

 

30課からなるこの教科書は、主にダイアログ形式の文章とそれを説明する文章、文法事項の説明、そして練習問題からなります。おそらく当時はテープもあったのでしょう。状況説明と対話の両方の文章を載せることによって自然と直接話法・間接話法の勉強ができるため、これはとっても良い方法だなあと感激してしまいました。

ダイアログの内容自体はソ連時代を強く反映しているがゆえにそのまま使うことはできませんが(やあ同志!なんて、今は言わないでしょう)、非常に洗練された文章だと思います。当たり前ではあるのですが、限られた語句と文法でも会話はできる、ということを再度気付かせてくれる教科書です。

 

③「ロシア・ソビエトハンドブック」1978年、三省堂

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↑本文は729頁あります。

本書は、20人の執筆者と7人の執筆協力者、現代ロシア語社、日ソ図書館、日本対外文化協会、そして三省堂の出版部によって作られた力作です。東郷先生は編集代表を務めておられます。

ソ連国旗と国章の紹介から始まり、国歌、憲法、国家機構、軍隊、官等表、勲章、科学アカデミー、教育制度、歴史、地理、文化、そしてロシア語の基本語彙や方言、ことわざ、手紙の書き方、文法事項の説明に至るまで、ありとあらゆる事項が網羅されています。ロシアだけでなく、ソ連諸国の地理や歴史、産業まで知ることができるのが魅力的です。

どうしてこの本が図書館の書庫に埋まっているの!?もったいないよ!!と思わず叫びたくなってしまいました。それくらい良い本だと思います。

現在は平凡社の「新版 ロシアを知る事典」が総合的な事典として有名ですが、それ以前はこの本が重宝されていたのでしょうか。当時のことを知らないのでわからないですが。

 

この本についても同様に、まえがきの東郷先生の言葉を読んでみましょう。

 

 ところで、わが国で英語を習いはじめるのはまだ小学校を卒業したばかりの少年少女たちであるのに対し、ロシア語の場合は、少数の例外はあるにしても、ほとんどが大学に学ぶ人たち、あるいは社会人たちである。すなわち、義務教育の一教科としてロシア語を学ぶのではなく、自分の自由意志によってロシア語を選択した人々である。当然のことではあるがこれらの人々は、ロシア語それ自体の学習と並行して、その背景にある国や国民、その国民が過去に創りだし、また現在創りだしつつある文化について旺盛な知識欲を示すのが通例である。(pⅰ)

 

うっかりロシア語科に入って無為な二年を過ごした自らの過去を恥じたくなってきました。旺盛な知識欲・・・。今はあるから許していただきたいものです。この「旺盛な知識欲を示す」人々の期待に応えるために本書は作られたようです。

 

おわりに

以上、東郷先生の著作のうち三点を取り上げましたが、いかがだったでしょうか?人目に触れることなくひっそりと図書館の隅に埋まっているのがもったいないくらい、素晴らしい本ばかりですので、興味を持たれた方は是非手に取ってみてくださいね!

 

まだまだ東郷先生について伝えきれていないことはきっと沢山ありますが、少しは彼がロシア語に捧げた人生とその魅力について知っていただけたかと思います!

私のようなしがない一学部生が偉そうにロシア界隈の大物を紹介してもよいのだろうかと思わなくもないのですが、しかし、それ以上にもっと多くの人に東郷先生について知ってもらいたい!!という気持ちが勝りました。うっかり途中から先生と呼んでいますがそれについてもお許し願います…。

普段何気なく使っている露和辞典ですが、それが作られるにはたいへんに長い道のりがあったであろうこと、そしてその執筆者のおひとりである東郷正延氏は、ロシア語を学んでいる現代の私達がもっとその名前を知っていていいくらい日本人にロシア(ソ連)のことを知らしめるために尽力されていたこと、そんなことを、次にまた辞書を引く時に思い出してみてください。

 

それでは、長くなりましたが、До свидания!(ダスヴィダーニャ/さようなら!)

 

 

文責:R

 

 

*今日のロシア語*

наслаждение (ナスレジュヂェーニエ)

 意味:楽しみ

радость(ラーダスチ)

 意味:喜び

чувствовать (チューストヴァヴァチ)

 意味:感じる

 

【参考文献】

佐藤純一(2002)「追悼東郷正延先生(1908-2002)」、『ロシア語ロシア文学研究』第34号、 p169

東郷正延(1966)『ロシア語のすすめ』、講談社現代新書

東郷正延(1972)『ロシア語教科書』、現代ロシア語社

東郷正延他編(1978)『研究社露和辞典』、研究社

東郷正延他編(1978)『ロシア・ソビエトハンドブック』、三省堂

東郷正延(2000)「学会草創期の思い出(学会創立50周年記念特集)」、『ロシア語ロシア文学研究』、第32号、p240