東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

破天荒な国際人、世界初の日露辞典

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Здравствуйте☆

 

どうも、ぼーりゃです!

 

今回は、前回の記事「おそロシアはもう古い!?」(『おそロシア』はもう古い!? - 東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ )でリクエストをいただいた、橘耕斎 (たちばな こうさい)さんについてお話していこうと思います!コメント、ありがとうございました~!

 

(この記事は上に貼ってある記事の続きとなっているので、そちらを読んでいただけると幸いです…!)

 

さて、この橘耕斎さんという方、恥ずかしながら今まで存じ上げませんでした…

しかし文献を調査してみたところ、驚くべきことがわかったのです。

 

福沢諭吉が記した、かの有名な福翁自伝にこんなことが書いてあります。

 

「ロシアに日本人がひとりいるといううわさを聞いた…名はヤマトフと唱えて…安政の初め伊豆の某寺に在ったとき、たまたまロシア軍艦の艦長と懇意になり、伴われてロシアに渡り、日本語を教えたり、外交官に随従したりしていたが、…橘耕斎という名で『和魯通言比考』を著し…これが最初の日露辞典である。」(「…」は略)

 

当時、吉田松陰が黒船に密航しようとして逮捕されるという事件がありましたが、橘さんは追手の目をくぐり抜け、樽の中に忍び込んでロシア亡命に成功してしまいます。

 

彼は掛川藩から脱藩し、僧侶として戸田村に身を隠していたのですが(当時脱藩はとても重い罪だったため)、偶然プチャーチン一行がやってきたときにこれはチャンスだと考えて彼らと懇意になります。

しかし、地図や日本語の辞書などをお金と引き換えにロシア側に渡してしまったことで幕府から指名手配されてしまい、日本にいられなくなってしまったために密航を決意したとも言われています。

(前の記事で紹介した江川太郎左衛門が「戸田村から一人どさくさに紛れていなくなってる…」という旨の報告書も出しています)

 

しかしその密航中、乗っていたロシア船「グレタ号」がイギリス船に捕まってしまうというハプニングが起きます。

 

ですが転んでもただじゃ起きないのが彼。イギリスの捕虜として9ヶ月監禁されるも、一緒に投獄されていた中国語の通訳官ゴシケヴィチと共に、1万6,000語に及ぶ日露辞典を作り上げてしまったのです。

 

茶色の背表紙に金色で”ЯПОНСКО-РУССКIЙ-СЛОВАРЬ”(=日露辞典)という文字が書かれているというとてもかっこいい辞書。表紙には「橘耕斎」の名が刻まれています。 

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『和魯通言比考』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

その後、ロシアに渡航した橘さんは日本から来た使節団のための接待係に任命されます。しかし幕府から指名手配をされていたため、使節団の前に直接その姿を見せることはなかったようです。福沢諭吉も『福翁自伝』の中で、ロシア滞在中に日本料理が箸と茶碗付きで出てきたことから、(こんなに日本流のもてなしができるとなんて…さては日本人がいるのでは…!?)と疑ったそうですが実際に日本人の姿を見ることはなかったそうです。

 

橘さんがロシアに渡ってからおよそ20年後の1873年。日本から岩倉使節団がロシアにやってきます。

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岩倉使節団 (左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通)

「新政府は脱国の罪を問うつもりはない」

 

幕府が倒れたためにようやく日本人の前に姿を現した橘さんは、岩倉具視に帰国を勧められます。

 

そしてようやく帰国した彼は、ロシア政府からお礼にともらったお金と共に、明治政府から与えられた増上寺(東京タワーのすぐ近くのお寺)境内の新居で余生を過ごすこととなるのです。

 

彼の噂はすぐに広まり、毎日のようにロシアに関する談話会が催され、生きたロシアの情報を知りたい政治家や、ロシア語を勉強している学生などが集ったそうです。

 

また、一緒に日露辞典を作ったゴシケヴィチも初代ロシア領事となって函館に赴任するなど、歴史に名を刻むこととなります。

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橘さんが晩年を過ごした増上寺

若い頃に博打の罪を問われて捕まったり、藩の思想が気に食わず脱藩して僧侶となったり、さらにはロシア正教や様々な宗派の仏教を渡り歩いたりと、当時では考えられないほどの自由を謳歌していた橘耕斎。

 

破天荒な人生を歩みつつも、一つの国や宗教に囚われず、激動の時代を生き抜いた彼はまさに「国際人」の先駆であり、わたしたちも見習えることがたくさんあると思います。

 

密航者であるためにあまり記録が残されていないですが、彼が日本とロシアの架け橋となったことに違いはありません。

 

コロナが収まったら戸田や下田に行って現地調査も進めるつもりなので、また何か進展があったらお知らせしますね~~!

 

それではПока пока~👋

 

 

ぼーりゃ

 

 

【参考URL】

「橘耕斎伝」(1970/4/1)中村嘉和 

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2395/1/ronso0630401380.pdf

「港区ゆかりの人物データベース/増田甲斎」

https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=131

 

【参考文献】

「ゴシケーヴィチ/橘耕斎『和魯通言比考』覚書」岩井憲幸

福翁自伝福沢諭吉

  

5月31日は橘さんの命日だそうです。このタイミングで彼のことをご紹介できて嬉しく思います。

 

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