『おそロシア』はもう古い!?
Здравствуйте☆
どうも、ぼーりゃです!
突然ですがみなさん、ロシアに対してどんなイメージを持っていますか?
冷たい、寒い、暗い、怖いーーー
ある界隈では「おそロシア」と呼ばれていることでも有名ですが、実際そんなイメージがあるかもしれません。
しかし、ロシア人の多くは日本に対して好意を抱いており、
そしてわたしたちにとって、ロシアは決して遠い国ではないのです。
この二つの国は、時代も政治も超えて繋がっているといってもよいでしょう。
日本とロシアの知られざる交流―――
今日は両国の交友の歴史について、少しだけお話しようと思います。
江川英龍(えがわ ひでたつ)。
この名前を聞いたことのある方はいるでしょうか?
知っている方には…ジャジャーン!日本史マスターの称号をあげましょう☆
あまり知られていない彼、実は日本で初めてパンを焼き(『ヤマザキ春のパン祭り』はこの日が由来)、フジテレビで有名な「お台場」を作り、さらに誰もが知っている「前へならえ!」「右向け右!」といったような号令を日本語に訳したすごい人なのです。
そんなすごい人がどうしてこのリュボーフィのブログに登場してきたのでしょう?
今からお話するのは、彼が生きていた時代―――江戸時代末期のこと。
日本とロシア、この二つの国の、本格的な交流が始まったときのことです
1854年 冬―――
「アメリカが日本と国交を…!?俺らも日本と国交を結びたーい!!」
プチャーチンを総督とするロシアからの船がやってきます。
しかしそれを襲ったのは安政の大地震。
かの東北大震災と同じくらいの、非常に大きな地震でした。
プチャーチンたちの船、「ディアナ号」は津波にやられて大破してしまい、
多くのロシア人たちが嵐の海に投げ出されてしまいます。
近くの村の人々に助けられながら、500人ものロシア人乗組員たちがそこから、幕府に船の修理場所として指定された現・沼津市の戸田村に向かいます
初めて見る外国人に戸田村の人々は大パニック!
自分の住んでいる町にいきなり外国人が500人も来るとなったら、
この令和でも、大きなニュースになること間違いなしです。
しかし彼らは次第に、共に生きる仲間として心を通わせ始めます。
その小さな村では日ロ合同制作の素敵な掛け軸などが作られ、また禁忌を犯して恋愛関係になった若者もいたようで、日本とロシアのハーフの子も生まれました。
そして、その船の修理を主だって任されたのが江川英龍でした。
オランダ語で造船術を学んだ江川さんは、ロシアの造船技術を学びつつ、
鎖国下において長らく船を造っていなかった日本では考えられないほどに素晴らしい船を、優秀な船大工たちと一緒に造りあげたのです。
設計図には、カタカナを使って必死でロシア語を書き取り、異国の長さの単位を理解しようとしていた跡が残されています。
またロシア側には、ロシアで初めて有人飛行に成功したアレクサンドル・モジャイスキーもいました。
彼が作った設計図を元に日ロ合同の、新しい船の形ができたのです。
彼らの尽力により船は無事完成。
そしてその船はプチャーチンによって「ヘダ号」と名付けられました。
日本とアメリカは対等関係が明らかであったために、すぐに和親条約が結ばれました。
一方でロシアと日本はお互い譲らず、条約はなかなか締結されなかったのですが、
この「ヘダ号」を通じて両国はお互いを認め、すぐに日露和親条約が結ばれることとなったのです。
_______________
日本とロシア。
わたしたちが思い描いているよりもずっと、この二つの国は近いものです。
今日ご紹介したのは一例であり、他にも両国の交友秘話はたくさんあります。
あなたもロシアという国に触れてみませんか?
それではпока пока ~👋👋
ぼーりゃ
*今日のロシア語*
японец(男)(イポーニツ)
/японка(女)(イポーンカ)
意味:日本人
россиянин(男)(ラシヤーニン)
/россиянка(女)(ラシヤーンカ)
意味:ロシア人
※これは「民族としてのロシア人」ではなく、「ロシア国籍のある人」を意味します。
ロシア国内にいる100以上もの民族も含んだ言い方です。