東京外国語大学ロシアサークルЛЮБОВЬ(リュボーフィ)のブログ

「未知なる魅惑の国」であるロシアならではの文化から、留学や旅行のこと、東京外国語大学でのキャンパスライフのことまで。このブログでは、東京外国語大学のロシアが大好きな学生たちが様々なテーマに沿って日替わりで記事を書いていきます。ЛЮБОВЬ(リュボーフィ)とは、ロシア語で「愛」を意味します。

匹田剛教授【ロシア語科教員インタビュー〈後編〉】

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↓インタビュー前編はこちら

tufs-russialove.hatenablog.com

 

 

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匹田先生の専門「ロシア語学」とは?

 ー先生の主な研究分野について教えてください!

ええと、長い話になるなあ…(笑) 簡単に言うと現代ロシア語の文法についてです。特にロシア語の名詞の形に興味があって研究しています。語の意味よりも形に、動詞よりも名詞に着目している、と言ったら分かりやすいかな…。説明するのが難しいのだけれど、意味は捉えどころがないように感じますが、形はぱっと見て分かりやすいから好きというのがありますね。

 

※名詞の変化とは?

ロシア語は、名詞自体の形が変化することでその語の役割を示す言語です。


例1)

 男の子日本語で話します。〈日本語〉

  Мальчикговорит по-японски. 〈ロシア語〉

例2)

 私は男の子おもちゃをプレゼントしました。〈日本語〉
 Я подарила игрушки мальчику. 〈ロシア語〉

例3)

 私は男の子知っています。〈日本語〉
  Я знаю мальчика. 〈ロシア語〉


このように、文の中でどのような意味で使うかによって、同じ「男の子」という意味の語でも語尾が異なります。ちなみに、ロシア語では意味の違いによる語の形の使い分け(「格変化」と言います)は、ここで話したものも合わせて単数形で6種類、複数形で6種類あります。つまり、例外を除くほとんどの語が12種類の変化形を持っているということになります。

 

ー今までたくさんの論文を執筆されたと思いますが、匹田先生は具体的にはどんな流れで完成まで辿り着くのでしょうか?

まずは、疑問を持つところが最初なんですよ。でも、答えが見つかりそうなものを選びます。スケールが大きすぎてあまりにも壮大だと論文が書けないですからね。

そこから、自分の持つ知識でいろいろ考えてみるんです。ああでもない、こうでもない、というように。そうしているうちに、だんだんと手掛かりになりそうなことが見えてくるんですね。

でも、不思議なことに、当初の疑問の答えに繋がるものはなかなか出てこないんだよね…。自分が想定していたものと異なる答えに辿り着くことももちろんあります。そして、そこで出たある答えや仮説がある程度確実かどうかの確認作業をしていきます。これがデータ集めです。自分の仮説をデータで固めていくようなイメージです。

このデータ集めの段階で、自分の仮説の間違いに気づいてしまうことももちろんあります。その時には1からやり直しです…(笑) それが1番つらい時ではあるんだけどね。

ここまでの流れを何度も繰り返した後でようやく論文にどんなことを書くか、どんな構成にするかということをメモに書き起こします。自分の問題意識と論法と結論が分かりやすく表現できる書き方を見つけるんです。

 

—論文の構成について考え始める前の段階で「データ集め」というステップがありましたが、匹田先生は具体的にどのような方法で行っているのですか?

外大の先生方の中で、実際のその言語が話されている地域に一定の期間滞在して調査するフィールドワークという方法でデータを集める先生もいらっしゃいますが、僕はあまりそういうことはしませんね。

ほとんど皆さんと同じようなやり方です。ロシア語のナショナルコーパス(数多くの例文が集められたデータベース)で検索したり、ネイティブスピーカーの知り合いに尋ねたりしています。先行研究の参考データとして掲載されているものに目を通すこともありますね。

 

 

匹田先生が感じる「外大生」像

—東京外国語大学に先生が赴任してきて1番驚いたことはなんですか?

そうだね、やっぱり忙しさかな…(笑) 新しい環境に置かれたことも相まって、精神的にも大変でしたね…。他の先生方もそうみたいなんですが、外大に来て1年目は「暗闇の中を目隠しで全力疾走させられている」みたいな気分だったなあ…(笑) そのぐらい強烈な洗礼を受けたという記憶があります。

 

ー先生が学生として在籍されていた当時と現在とで比較したときに、東京外国語大学の学生の印象について感じていることは何かありますか?

そうだなあ…。世代の違いもあるし、学生側の視点と教授の視点でもちろん印象は変わってくるから一概には言えないけれど、今の外大生は良くも悪くも繊細になっているような気がしますね。僕たち教授陣に対しての言葉遣いから、僕自身が学生だった頃に比べて真面目だな、大人だなと感じることもあります。

それと、これは私が驚いたことなんですが、学生たちの大学に対する満足度が高いんですよね。授業評価アンケートにもポジティブなことを書く学生が多いです。僕が学生だった時代にはあまり感じなかったことかもしれません(笑)

 

—匹田先生から、現在ロシア語を学んでいる学生にひとことお願いします!

そうだなあ、時々ゼミ生から相談されるんだよね、「僕どうしてもロシアのことが好きになれないんです」って…(笑) ロシア語学のゼミに入るくらいだから、ロシア語を勉強すること自体(単語を調べたり、文法を学んだりすること)は面白いと感じてくれていると思うんだけれど、そんな風に思う学生もいるんだよね。

でも、それでいいと考えています。

ロシア語を勉強することとロシアのことが好きということは全く別の話で。ロシアを相手に仕事をすることとロシアが好きということもまた全然違った話になってくると思います。語学は語学。仕事は仕事。なにもロシアのすべてを好きでいる必要はないように感じますね、結婚相手じゃないんだから(笑)

だから、必ずしも「ロシア語への興味=ロシアへの興味・好意」ではない気がするんですよね。これは私が学生の皆さんに向けて強く言っておきたいことです。

「ロシア語学を学んでいるけれどロシアが好きになれなくてもいいんですか!?」と言ってくる学生が意外と多いからね。留学したい人でもそう言うし。無理に愛そうとしなくていいんじゃないかな。自分が楽しけりゃそれでいい!そう思います。

 

海外に留学を予定していた学生は、誰しも大きな決断を迫られることが多かった、去年からの1年間。私たちが大切にするべきものは案外シンプルなものだと、先生はご自身の経験談を通して私たちにお話してくださったと感じています。自分の気持ちに向き合いながら、可能性を狭めることなくチャレンジしてみようと思うことができました。

お忙しい中、今回のインタビューに快く応じてくださった匹田剛先生、本当にありがとうございました。この場をお借りして深くお礼申し上げます。

  

最後に、先生が携わっていらっしゃる書籍を紹介します!興味のある方はぜひ手に取ってみてくださいね!

これならわかるロシア語文法 (NHK出版)

ゼロからスタート ロシア語文法編 (Jリサーチ出版)

 ※匹田先生が担当するゼミ生が中心となって制作

大学のロシア語Ⅰ (東京外国語大出版会)

 

取材・執筆担当:戸板咲紀(4年)、片貝里桜(4年)、高野裕生(1年)

 

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匹田剛教授【ロシア語科教員インタビュー〈前編〉】

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● 匹田剛/Go HIKITA

東京都生まれ。東京外国語大学卒業。北海道大学大学院修了。小樽商科大学助教授を経て、現在東京外国語大学教授。ご専門はロシア語学で、主な論文に「ロシア語における主語・述語の一致をめぐって」(『北海道言語文化研究』第8号、2010年)、「ロシア語の数量詞と一致が示すいくつかの問題点」(『東京外国語大学語学研究所論集』第12号、2007年)などがあります。大学では1・2年生のロシア語の必修授業を担当されています。ロシア語学のゼミではロシア語学全般についての文献を読み、具体例を挙げつつ詳細に解説してくださっています。

 

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ロシア語との出会い

ーまず始めに、何度も聞かれている質問かと思いますが、匹田先生はなぜロシア語を大学で専攻するに至ったのでしょうか。

必ず聞かれるでしょう、なぜロシア語なのか。ロシア語は理由がないと勉強しちゃいけないのかと。世間的にはそう思われる節があるかと思います(笑) 僕の場合は、高校生の頃から言葉を勉強したいと思っていました。外国語を勉強したい、外大にいきたいと考えていたんです。

問題は「どの言語を勉強するのか」ということでしたが、正直なところ、候補を消していったらロシア語が残ったというわけですね。高校でも勉強していた英語は難しくてうんざりしてもういいやと思っていたので、なにか新しい言語がいいなと思いました。また、子どもの頃から漢字を書くのが得意ではなく、なかなか覚えられないので、中国語は冗談じゃないとなりました(笑)

このように消していって、なんとなくロシア語が残ったのかなと思います。入学後もロシア語をやめたいと思ったことは何度かありました。でも、そのような紆余曲折を経て結果的には一生の商売になったので、決してこの選択に後悔はしていません

鈴木先生(ロシアやソ連の経済が専門分野。外大のロシア語の授業も担当されています。)がおっしゃっていましたが、「大学に入ってからどうしてこの大学に入ったか考えなさい」という言葉は、その通りだと思いますね。入ってから、このために入学したんだというものを見つけたらいいのではと僕も思います。

 

ー学生時代はロシア語科に在籍されていたということですが、匹田先生は留学の経験はありますか?

僕らの在学していた頃は、留学というのは考えにくい時代でした。まだロシアはソ連で社会主義国家でしたから、なかなか簡単に現地へ行けるものではありませんでしたね。僕の大学院博士課程の頃になるとゴルバチョフの時代(1980年~1990年頃)で、だんだんと風通しがよくなっていきました。

行こうと思えば行けたのが大学院時代の最後の最後くらいで、僕らのちょっと後の世代から、留学がごくごく当たり前になりました。ですから私は留学には行っていません。大学院生の頃には現地調査に同行してロシアに何か月か滞在していましたがね。

 

ー今とはかなり留学の状況が違うのですね。

そうですね、全然違います。今は留学したことで4年で卒業しない学生が結構の割合でいるじゃない? 我々の時代は、留学しないのに同じく4年で卒業しない学生がかなりいた、そういう時代だったのです。

 

ーでは、匹田先生の学生時代の授業の取り組み方についてお伺いしたいのですが、ロシア語や他の科目の授業への取り組み方は、自分自身で振り返ってみてどう思いますか?

あまり言いたくないのですが、一応留年はしなかったけれど、いくつか危ない橋を渡りましたね(笑) 僕らの時は、1年生から2年生、2年生から3年生と2回ハードルがありました。学生のみなさんに悪い影響を与えたくないけれど、そんなに優等生とは言えなかったと思います。

1年生の時は文法ばかりで、我々の時代は今のような一冊にまとまった教科書はなかったので3冊くらいの語学書をそれぞれの先生方が並行して進めていきました。1回どこかでしくじると、ロシア語科の仲間が100メートル先にいて、そのずっと後ろにいる自分に気がつきます。その分を取り返すのもなかなか大変だったので、かなり危ない橋を渡ったと思いますね。

ただ、一生懸命真面目に勉強したいという気持ちはずっとありました。2年生になってロシア語で内容のあるテキストを読み始めると、楽しさを覚えたんですよね。一生のうち真面目に文学読もうと思ったのは、大学2年生の時だけかもしれません。授業で先生がプラトーノフ(1899-1951年。ソ連前期の作家)の小説を読む機会をくださって、おおよそ文学に向いてない人間だと自分では思っていたけれど、その時は文学は面白いし楽しいものだと思いました。

 

ー先ほど、大学時代に苦労されたお話をされていましたが、失敗談や挫折した経験はありますか?

まあ最初に失敗したと思ったのは、原卓也先生(ロシア文学者)も若い頃に同じようなことをおっしゃっていた記憶がありますが、外大ロシア語科に入ったことですね(笑) しまった、と思ったね。当時はかなり多くの学生がそう思ったんじゃないかな。僕も格変化が6つもあると知ってたら、ここには入らなかったんじゃないかなと思いました(笑)

加えて、僕は学生時代バイトばかりしていたんです。中学生相手に塾の先生をしていたのですが、気がついたら、自分の熱意がバイトの方にいってたのかもしれません。自分は本当に大学生なのかよく分からなくなり、宙ぶらりんな精神状態だったこともありますね。

 

ー匹田先生は東京外国語大学卒業後に北海道大学の大学院に進学されていますが、どういった理由で北大を選ばれたのですか?

まずは、ロシア語の世界というより、言語学の世界に身を入れたかったんです。当時から北大には露文(ロシア文学専攻)もありましたが、言語学を研究したかった自分を北大が入れてくれたというのが正直なところかな。 

また、両親が北海道にいたからという理由もありました。流れに身を任せる形で選んでしまいましたが、最終的には北大の大学院に進学していなかったら、たぶん今のこのロシア語学の世界にはいないだろうなと思います。だから運は良かった。あのまま東京にいたら、なにか別の道に進んでいたかもしれません

  

「研究者」としてロシア語に触れる

―匹田先生はどのような経緯で現在の教授職になられたのですか?

今の時代とはだいぶ違うのだけれど、僕の時代だと文科系の大学院に入る人は、研究者を目指す人ばかりだったね。というのも、文科系の大学院に入ると一般企業に就職するのは難しいというイメージがあったからです。僕が修士課程で気弱になっている時に、大学時代の友人の会社に雇ってもらえないかと聞いてみたら、「無いね。」の一言で済まされてしまったね(笑)

大学院に入ったのは勉強が何となく面白かったから。就職できなかったらその時に考えればいいかなという気持ちでした。これは今考えるとまずいなと思うのだけれど、僕が学問の中で面白いと思うことを持つようになったのは、大学院の修士論文を書き始めてからなんですよね。大学の学部時代ではなくて。北海道大学の大学院に行ってなかったら、その面白さに気づけなくて、挫折していたかもしれないとも思いますね(笑)

 

―研究をしていて、楽しいと感じるのはどのような時ですか?

研究をしていると、楽しい時と本当にやめておけばよかったと思う時の両方があるんだよね(笑) 何か見つけたときはすごく嬉しいわけです。それがあるから僕は研究職を続けているのだと思います。

言語学は自分でパズルを見つけて解くようなものであって、そのパズルを解いているときと、それが突然解けたときは、研究職に就いてよかったという気持ちになりますね。逆につらい時というのは、主に行き詰まった時だね。研究は誰も知らない答えを自分で考えなければならないので、つらい時の閉塞感は半端ではないです…(笑) パズルが解けたと思ったけれど、間違っていたと気づいた時もつらいと感じます。

 

―匹田先生は以前小樽商科大学に勤められていましたが、東京外国語大学と小樽商科大学は研究の環境面で比較するとどう感じますか?

小樽商大と外大を比べると、任せられる仕事の量が違うと感じます。外大はコマ数が小樽商大にいた頃に比べて倍くらいあって、会議や監督業務といった仕事もあります。その環境に慣れるのは大変でしたね…。

研究時間や予算面では小樽商大の方が個人的に合っていた気がします。外大での授業は自分の研究分野(ロシア語)に近く専門的なので、小樽商大でのいわゆる第2外国語の授業と比べて、生徒からのフィードバックの量はかなり多いです。その分やりがいのある日々ですね。

また、外大の大学院生はもはや研究仲間のような認識で、彼らから得られるものは多いと感じています。小樽商大は「北海道外国語大学」と言われるほど、言語をまじめに学ぶ学生が多いので、それはそれでよかったね。だから、どちらも一長一短で、小樽商大に戻るかと言われると迷うなあ(笑)

 

―最後に、学生に教える時や接する時に匹田先生が心掛けていらっしゃることはありますか?

語学を教えている時に、ロシア語「研究者」としての自分とロシア語「教師」としての自分を混ぜてはいけないと思っていて、かなり注意を払っています。自分自身でコントロールしないと、僕の研究分野を細かい部分まで授業で話しすぎてしまうからね(笑)

僕は文法の専門家として教育にかかわり、文学や経済といった他の分野は別の先生にお任せしようと考えているところはあります。ロシア語の教科書や参考書をつくる時には、語学の授業で教えるのには適しているけれども、厳密に言うと言語学的には正しくない表現を使う場合があります。そこに気づく学生が意外といて、「さすが外大生だな」と、悔しいような嬉しいような気持ちになります。 

  

取材・執筆担当:戸板咲紀(4年)、片貝里桜(4年)、高野裕生(1年)

 

↓インタビュー後編はこちら

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ナターリヤ・バルシャイ先生【ロシア語科教員インタビュー〈後編〉】

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↓インタビュー前編はこちら 

tufs-russialove.hatenablog.com

 

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日本での仕事について

―日本語を学び始めた理由を教えてください。

日本で生活をするためです。まず夫が日本に働きに来て、その後私も来日しました。その時はまだ何も話せませんでした。日本語を勉強し始めたのは50歳からなんです。日本という国と私が結びついたのはまったく運命と言ってもいいでしょう。

 

―差し支えなければ旦那さんの仕事について教えてください。

わたしの夫は日本研究者で、翻訳者や編集者としても活動しています。

 

―どのように日本語を勉強したのですか?

ボランティアでやっている日本語教室で勉強し始めました。10年ほど勉強していて、今でも週に1回通っています。日本語の先生はとても優しいですが、厳しいです。ずっと日本語で話さなければならないので大変なんです。ですから、ロシア語を学ぶ皆さんの気持ちはよくわかります。

 

―日本語の難しいところはどこだと思いますか?

わたしにとって特に難しいのは、漢字と単語を覚えることです。しかしだからといって嫌いなわけではなく、一年間書道を習ったこともありました。その美学を享受することができ、とても満足しています。

 

―いつ来日されましたか?

初めて日本に来たのは20年前です。そこから10年間は行ったり来たりを繰り返していましたが、その後はずっと日本に住んでいます。日本に住んでいるのは運命だと思っています。

 

―初めて来日した時の印象を教えてください。

日本に来て最初の一週間は一歩も家の外へ出ませんでした。迷子になったり帰り道が分からなくなったりするのが怖かったですし、なにより日本語を全く、単語一つさえも知らなかったのです。その後ボランティアで教えてもらって日本語の勉強を始めてからは多少暮らしやすくなりました。もちろん、日本の環境はベラルーシやロシアとは全く異なるので慣れる必要がありましたが、今までに日本で出会った人たちは皆私に親切にしてくれたのでだんだんと日本で生活することに慣れました。今ではたくさんの友人や可愛い生徒たち、尊敬できる同僚などが日本にいます。日本で暮らしていて幸せだと言えるでしょう。

 

―外大以外ではどこの大学で教えていましたか?

早稲田大学でロシア語、ロシア語のスピーチ、ロシアの映画と演劇について教えていました。 

 

大学について

―仕事や生活で大変なことはありますか?

特にないですが、日本語があまり話せないことが一番の問題です。でも、もし私が日本語をとても上手に話せたら、授業中ずっと日本語で話してしまうでしょう。それでは生徒たちに悪いですから、授業中はできるだけロシア語で話しています。

 

―今までに仕事などで挫折を経験したことはありますか?

人生や仕事においてそれほど大きな挫折というものはなかったように思います。というのも私がこれまでに出会った人々は皆とてもいい人たちだったからです。その人たちのおかげで私の人生は豊かなものであり続けてきました。そんな人たちとめぐり合わせてくれた運命にも私はとても感謝しています。

 

もし教師でなければどのような職業があり得たと思いますか?

教師以外にやりたい仕事は、やはり劇団の演出家ですね。

 

―外大生の印象をお聞かせください。

とっても優秀です。可愛くて、魅力的で、頑張り屋の素晴らしい若者たちです。愛する皆さんと会うのが好きですよ。生徒たちのことは私の子供だと思っています。

 

―普段外大のほかの先生方との交流はありますか?

とても優秀な専門家たちで、素晴らしい人たちです。先生方とは授業や勉強方法、そして生徒たちについて話しています。

 

―外大生にメッセージがあればお願いします。

Дорогие студенты. Я вас очень люблю. Я бываю строгая иногда, но я вас все равно очень люблю. Изучать русский язык трудно. Это иностранный язык. Но вы стараетесь. И спасибо вам за это. Встретимся на уроках. До встречи!

(親愛なる学生の皆さん。私は皆さんをとても愛しています。時々厳しくするけれど、それでもやっぱり大好きですよ。ロシア語学習は難しいです――外国語ですから。しかしみなさんは頑張っています。私はそのことに感謝しています。授業で会いましょう。ではまた!)

 

ナターリヤ先生、ありがとうございます。普段授業を受けているだけでは聞けないような様々なお話を伺えてとても新鮮でしたし、ロシア語を勉強している我々への温かい言葉も心に響きました。特に1年生や2年生の方、ロシア語学習者の皆さんにとっても先生の言葉が学習のモチベーションとなることを願います。

以上、ナターリヤ・ヴィクトロヴナ・バルシャイ先生へのインタビューでした。

 

取材・執筆担当:内藤奏汰(4年)、長谷川朝香(2年)

 

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ナターリヤ・バルシャイ先生【ロシア語科教員インタビュー〈前編〉】

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● ナターリヤ・ヴィクトロヴナ・イワノヴァ(バルシャイ)先生

ベラルーシ出身、ロシア人の父とベラルーシ人の母のもとに生まれる。ベラルーシの演劇学校で学んだ後、現地の大学で教員としてスピーチや演出・演技の技術の授業を担当、その傍ら学生演劇の演出も担当。50歳の頃、夫の仕事の関係で来日し、1999年よりロシア語劇団コンツェルト※に携わる。

 

※劇団コンツェルトについて

劇団コンツェルトは早稲田大学をはじめとして東京外大、東大、慶應大などの学生からなる学生劇団で、全編ロシア語での演劇に取り組んでいる。1970年に設立、2020年に設立50周年と第50回目の公演を迎えた。ナターリヤ先生は1999年よりロシア語の演出や発音・演技指導を担当、2019年本公演を以て芸術監督の役職を退任された。

 

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地元について 

―先生はどこの国・町のご出身ですか?

私はベラルーシという国で生まれました。私が育ったのは都市ではなく、Малая Сливка (小さなプラム) という小さな村です。とても長閑な田舎の村で、周りには野原や平原、そして森が広がっています。自然がとても美しい村です。

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―その村の見所や特産品などはありますか?

自然が豊かなので、特産品というと果実などがメインです。私の家の隣には果樹園があり、リンゴや梨、プラム、さくらんぼなどが取れます。見所は、村の周りの草原や森といった美しい自然の数々です。

 

―ベラルーシにいた時にはベラルーシ語は使用していましたか?

はい、もちろんです。地元の学校では皆基本的にベラルーシ語を話していました。しかしロシア語やロシア文学の授業もあったため、ベラルーシ語※とロシア語の二つの言語を話していました。また私の父はロシア人、母はベラルーシ人だったので、父親と話す時にはロシア語、母親と話す時にはベラルーシ語と家庭内でも二つの言語を使い分けていました。

※ベラルーシ語はロシア語と並んでベラルーシ共和国の国語に指定されているが、母語や家庭内言語としての地位はロシア語が優勢であり、特に都市部ではベラルーシ語を話せないベラルーシ人も多い。

 

―家庭ではどのような料理を食べていましたか?

子供の頃にはドラニキ(ジャガイモのパンケーキ)や目玉焼き、ブリヌイ(ロシア風クレープ)などをよく食べていました。付け合わせには牛乳やスメタナ(サワークリーム)がよく出ました。

 

ご専門について

―先生はベラルーシの演劇学校に通っていたそうですが、そのきっかけは何ですか?

学校行事などで舞台に立って人前で表現をすることが好きだったので、高校を卒業した後にそのまま演劇の道を進もうと思ってそこに入りました。そこでは私は演出家の卵でした。

 

―学校ではどんなことを勉強されましたか?

主に舞台での発声や動きといった演技についてのことや演出の技術について学びました。朝から晩までみっちり授業があり、疲れはするもののとても面白くて皆楽しんで学校生活を送っていました。それは好きなことでしたから。

 

―現地で劇団を率いたことはありますか?

演劇学校を卒業した後、私は教育大学や文化大学で演出の理論や俳優の技術、弁論術といったことを教えながら、大学の学生主催の劇団に携わってきました。ですから商業的なプロの劇団にはいませんでしたが、学生演劇の演出家として劇を作っていました。

 

―今までにどんな作品を演出してきましたか?

私は40年以上演出家をやっていますが、主にロシアの古典作品や現代戯曲などを演出することが多かったです。おそらく今までに50以上の劇の演出をしてきたと思います。いろいろな作家の文学作品を劇にしてきましたし、ロシアを飛び越えて海外の作品の演出をしたこともあります。またロシア国内外の詩文学作品を演出したこともあります。

 

―今後演出の仕事をするとしたらどのような劇をやったみたいですか?

今はロシアの詩文学の作品の演出をしてみたいと思っています。特に愛にまつわる喜びや悲劇を描いたものがいいですね。

 

取材・執筆担当:内藤奏汰 (4年)、長谷川朝香 (2年)

 

↓インタビュー後編はこちら

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新井滋特任教授【ロシア語科教員インタビュー〈後編〉】

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↓インタビュー前編はこちら

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ビジネスマン新井先生のプライベートな素顔

―休みの日は何をされていますか?趣味は何ですか?

休みの日はお掃除ですね(笑) 整理整頓が好きなので、自宅ではお掃除担当です。あとは、テレビで野球観戦をしています。コロナの前は、実際に球場に足を運んで観戦していたほどなので、早く安心して見にけるようになってほしいものです。

 

―モーニングルーティンやナイトルーティンでは何をされていますか?

毎朝、「モーニングサテライト」という経済情報番組を見ています。資産運用をしていることもあって、株価の動きや経済動向を知るために、毎朝経済ニュースを見ることが必須ですね。夜にも「ワールドビジネスサテライト」という経済情報番組を見ています。ベッドの上でストレッチをしながら番組を見ています。これらは、「やらなければならない」という意識ではなく、「興味があるのでやる」という意識でやっていますね。

 

―今後退任された後はどのような活動をされたいですか?どのようなプライベートを過ご されたいですか?

私は世界展開力強化事業のコーディネーターとして雇われていて、世界展開力強化事業が2022年の3月で終了するので、それをもって契約終了となります。それが終わったら何をするかはまだ具体的には決まっていないのですが、この仕事を始める前のような、セミリタイアの状態に戻ろうと思っています。セミリタイアというのは、「お仕事を頼まれたらやります」といった形ですね。何もしなくなるというのはつまらないので。外大に着任する前は、JETROの専門アドバイザーとして務めたり、JICAがロシアの代表団を連れて日本の札幌に来た時に通訳をしたり、ロシア語通訳協会に入ってビジネスロシア語の講師をしたり友人の輪を広げたりしていました。そういった経験や繋がりを今後ももっと広げていきたいです。あとはプライベートでは娘が中学校1年生なので、娘の進学指導やキャリア指導を応援していきたいです。娘は迷惑に思うかもしれないけど(笑)、娘に頼まれればやっていきたいなと思いますね。

 

新井先生から外大生に向けて

―先生の在学時の外大(生)と今の外大(生)の印象に違いはありますか?

40年以上前の話なので具体的な比較をするのは難しいのですが、基本的な部分でそんなに大きな違いはないかなと思いますね。ただし、私が在学していた昭和の時代と平成・令和の時代では時代背景が全く違うので、その時々の今どきの若者像という部分での違いはあると思います。今の学生たちがどのくらいの深さで友達と付き合ってるのかわからないんですが、当時は今のようにSNSとかスマートフォンとか全く無かったので、我々は友人とかなり深く付き合っていました。友達の広がり具合や友達と付き合うときの深さが当時と今では違うかなという印象です。あとは男子学生について言うと、当時国立大学は一期校(東大や筑波大などの旧帝国大系)と二期校に分かれていたんですよ。一期校と外大みたいな二期校は試験のタイミングも違っていたので、男子学生でその当時二期校である外大を受けて入った人というのは大体一期校を受けてダメだった人が多かったんです。つまり第一志望で入ってくる人が少なかったんですね。今は一期校二期校の差は無いので、第一志望で入ってくる男子学生が多いかもしれないですね。そのため、専攻のロシア語に対するスタンスというのが違うんじゃないかと思います。私の印象では当時ロシア語を一生懸命勉強している男子学生っていうのはあまりいなかったような気がします。ですから大学を卒業する時や就活の時に、ロシアにこだわっている人がそんなにいなかった印象ですね。それが違いかもしれません。

 

―新井先生から見た外大生の強みはどのようなところだと考えられますか?

外大生の強みは語学をやっているということから来ると思うんですけども、コツコツ学習していく能力の高さだと思います。語学はやっぱり基本から地道に勉強しないと全く先に進まないので、外大生はコツコツ勉強するタイプの人が多い。つまり、学習能力が高い人がそこそこ多いんじゃないかなっていうところがあると思いますよ。そういうことは世の中に出ていっても1つの強みであって、それがゆえに色々な分野で適応が可能であると。逆にいうと、適応しないと物にならないわけですよね。私は何語が出来ますと言ってもそれはあまり強みにはならなくて。そういったコツコツ学習していく能力が高いために、色々な環境・分野に適応ができるというのが一番の強みではないかと思います。

 

―外大に着任してからの1番の思い出は何ですか?

大学で仕事をする経験が全くなかったので、最初はどうなることやらと正直思いましたね。それでもめげずにコツコツと、外大生の強みですからコツコツとやっていくなかで、どんどん面白くなってきました。1番印象に残っているのはやはり6つのロシアの協定校から来た約30名の学生に対して実施したサマースクールですね。初めての経験ですからものすごい時間をかけてね、ここまでやるかというくらいまで丁寧に準備をして実際に学生さんたちを迎えたわけなんですよ。そうしたら、ロシアの学生から非常に面白かったと感謝されたんですね。あとは、そのサマースクールの時に国際日本学のロシア語の授業の中で、各授業に対して非常に面白かった、面白かった、普通、あまり面白くなかった、全然ダメ、そういった段階の評価をするアンケートを取ったんですね。それでなんと2018年と2019年対面でやったサマースクールで2回とも、私の担当した授業が一番高評価だったんです。やった甲斐があったと思いました。私がコーディネーターだしずっと彼らの面倒を見ていたので高い評価しかあげられなかったとかあったのかもしれないですが、ロシアの学生は忖度するようなタイプがそんなにいると思わないので、純粋に高い評価を受けたのかなと思いました。そのサマースクールにかけた労力に対して、高い評価で報いがあったというのが1番印象に残っていることですね。

 

―ロシアビジネスにあたって必要な姿勢、能力は何ですか?

ロシアビジネスに限ってということは無いのですが、とにかくビジネスにおいて重要なのはコミュニケーション能力なんですね。つまり表面的にやりとりするっていうよりも相手のことを考えて、自分のことや自分の会社について正確に知ったうえで、ビジネスのパートナーの懐に入っていける。懐に入っていけるというのは、同僚、上司でもそうなんですけども、相手の気持ちをおもんばかって相手の懐に入って、コミュニケーションが取れる能力っていうのが1番大事なんですね。ロシアで特別ということを言うならば、ロシアの人はそれを非常に重要視することです。相手の母国語で深い話が出来るまでのコミュニケーション能力があれば絶対に成功すると思います。私はソニー時代やコンサルタント担当の時代に成功したと思うんですけども、それはコミュニケーションが取れたからです。そういうのを周りの人は見ているので、ソニーとしては私を14年半もモスクワに張り付けておいたわけですよ。普通そういうことはしないですからね。このように、コミュニケーション能力が高くロシア通であり、なかなかその人をリプレイスできないところまで評価を受けるというのが非常に大切です。特にロシア人というのは結構感情や人情というところに訴えかけるんですね。エモーションのレベルでコミュニケーションできると、そういう人たちは我々を受け入れるわけです。そして、それは直接ビジネスの成果となって現れるわけですね。

 

―今後ロシアビジネスに関わりたいと思っている外大生に向けて、メッセージをお願いします。

どこに就職しても、東京外大でロシア語をやっていたというのはついて回るわけです。ですから、会社がロシアに関することをやっていないとなれば話は別ですが、現在やっているもしくは今後やるという可能性がある場合、本人が好む・好まざるに関わらず、「ロシアをやってください」となる可能性が高いわけですね。その時に備えて、会社内でロシア通と呼ばれるほどのロシアについての知識を学生時代に吸収して欲しいですね。あとは、ツールとしての外国語(ロシア語+英語)が大切です。英語なしにはビジネスできませんから、特に英語は重要です。学生の時はあまり難しいことは要らないので、やろうと思えば学生時代にモノにできる文法や一般的に使われている表現といった基礎レベルをロシア語・英語ともに徹底的に鍛えて欲しいです。つまり、基本的なことですけども、自分の専門分野であるロシアの地域研究と外国語力(ロシア語力+英語力)の基礎を万全にしておくということが非常に大切だと思います。

 

新井先生が本当に様々な経験をされてきたということが分かり、新井先生への尊敬度が高まりました。私も将来ロシアビジネスに携わりたいと考えているので、新井先生の行動力やコミュニケーション能力を見習っていきたいと思います。新井先生、本当にありがとうございました。

 

取材・執筆担当:明歩谷七海(4年)、芝元さや香(4年)、添田乙羽(4年)

 

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新井滋特任教授【ロシア語科教員インタビュー〈前編〉】

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● 新井滋/ARAI Shigeru

1957年、茨城県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。外大では特任教授・大学の世界展開力強化事業(ロシア)のプログラムコーディネーターを担当。担当授業は、日露ビジネス講義、日露タンデム学習、国際日本学、ロシア語医療通訳入門、駐在員のロシア語。

 

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ビジネスの世界に入る前の新井滋学生

―なぜ大学の専攻としてロシア語を選ばれたのですか?

高校生の時に英語が好きだったので、「とにかく外大に入って何か外国語をものにしたい」という気持ちが最初でした。ロシア語を選んだ理由は、当時ソ連に対し親しみを感じている人はあまりいなかったので、競争が少なくて希少性が高くなるだろうと思ったためです。実際に自分の人生を振り返ってみると、その選択は正解だったかな、良かったなと思います。後悔はないですね。

 

―留学はされましたか?

留学はしませんでした。私が入学した1976年の当時は派遣留学制度がなく、また、個人の留学にしてもソ連はあまり門が開かれていない状態でした。なので、留学は自分の選択の範疇にはありませんでした。限りなく観光旅行に近い語学サマースクールに参加した同級生に何名かいたんですが、本格的な留学をした学生はいませんでした。実は、沼野先生と同期で同じクラスだったんですが、沼野先生は『ロシア語スピーチコンテスト』で優勝して、そのご褒美で無料で夏休みに何週間かロシアに行かれてましたね。(沼野先生の記事は6/28,29に公開予定です!)

 

―卒業論文は何について書きましたか?

当時は卒業論文を書かなくても、他の科目をいくつか取れば卒業できる制度だったので、卒業論文は書きませんでした。羨ましいでしょう(笑)

 

―学生の頃思い描いていた将来像と実際のキャリアに違いはありましたか?

当時の私は決定をやたら先延ばしにする「モラトリアム人間」だったので、キャリアについては真剣に捉えていませんでした。いきあたりばったりのような感じで、ロシアに関する仕事であれば何でもいいよというようなスタンスでした。一つだけ言えるのは、「ずっとロシア語が使える仕事がしたい」という強い意欲があったことだけは確かです。

 

―「大学生の時にやっておけばよかった」と思うことは何かありますか?

卒業論文を書いておけばよかったなあと思いますね(笑) 自分で調べて担当教授と意見を交わすというプロセスを経験しておきたかったなと思います。あとは、学部2、3年生のころから、自身の将来のキャリアについてもっと真剣に考えておけばよかったと後悔しています。

 

―バイト・サークル・部活動では何をされていましたか?

小学生の頃からずっと野球をやっていて、『巨人の星』を目指していたほどの野球少年だったので、大学では有志と一緒に軟式野球同好会をつくりました。私たちが卒業してしばらくしてから「部」に昇格したとういことで、今の軟式野球部は私たちの同好会が「始祖」なんです。で、その片手間に、コンツェルト(ロシア演劇のインカレサークル)のお手伝いをしていました。舞台に立つことは憚れたたので、裏方の照明係をやっていました。あと、バイトはガソリンスタンドで土木工事の仕事をしたり、東京新聞で地方版の校閲をしたりして、学生ながらそこそこ稼いでいました。

 

 

新井先生の輝かしいキャリア

―どのような経緯でロシアビジネスにたどり着いたのですか?

とにかく、ロシア語以外の仕事は就きたくなかったですね。たどり着いたというよりも、その道しかあり得ないというような感じです。ロシア語をずっと使える仕事は何かということで、大学の就職課(現グローバルキャリアセンター)に行って調べに通ってました。

 

―これまでなさってきた仕事について教えてください。

卒業後すぐに就職したのは、ある総理府の外郭団体でした。ソ連、中国、北朝鮮などの共産圏の動向を調査する研究所で、そこに一年弱いました。毎日のルーティーンとしては、午前中に日本の新聞主要6紙を読んで、ソ連関係の記事をクリッピングすること、、午後になると今度はソ連の新聞を読んで要人の動向を追ったり、掲載されている重要な論文を翻訳したりすることでした。ソ連事情に詳しくなったとともに、翻訳をすることでロシア語の読解力がつきましたね。ただ、私にとっては単調な仕事のためにすぐに退屈になり、早々に辞めることを決意しました。

次は『呼び屋』での仕事です。呼び屋とは何かというと、海外から芸能人を「呼んでくる」ところから来ています 別名プロモーターとも呼ばれています。一般的には日本で行う公演の企画・準備・運営をするという仕事をします。私がいたのはソ連や東欧専門の呼び屋で、劇団とかサーカスといったものを中心に呼んでいたんです。劇団の人の来日前は青年会議所や新聞社などに公演をまるごと買ってもらったり、団体でチケットを買ってもらったり、協賛金や広告を集めたりといった営業の仕事を行いましたね。来日後は密着同行して受け入れ会場の日本人と来日したロシア人の裏方さんたちの間に入って通訳などをしたり、アーティストさんの身の回りの世話をしたりしました。この仕事では否応なく中身の濃いロシア語環境にどっぷりと浸かったので、日本にいながら留学をしたような感覚でしたね。でも、この仕事の将来性、安定性に疑問を持ち始め、次の仕事に移ろうと思い始めました。

そんななかで、たまたま朝日新聞にソニーの海外営業要員の募集のなかにロシア語ができる海外営業要員の項目もありました。そこに思い切って応募し、試験・面接を通過して運良く入ることができたんです。私が配属されたのは、民生用のテレビやビデオではなく、業務用の放送機器などを扱う部門でした。入社6年経ったところで、モスクワに事務所を作ることになり、第一号の駐在員として赴任しました。いまから30年も前のことです。普通は赴任してから3~4で帰任するものですが、特にどうしてもロシア駐在を続ける希望を人事に出していたわけではないのに、5年、10年と時がたっても帰任命令は来ませんでした。そうこうしているうち、15年目に入ろうとするタイミングで「いくらなんでもそろそろ日本に帰ってこないか」という声が掛かりました。私としては、東京本社に帰ってもロシア関係の仕事がないことは分かっていましたし、もう少しロシアにいたいという気持ちが強かったので、たまたま当時社内で管理職向けに案内されていた早期退職プログラムがを利用し、モスクワにいたまま退職しました。最終役職は、ZAO SONY CISという現地法人の社長でした。

その次に入ったのが、富士フイルムの子会社のフジノンという会社です。これはソニーにいた頃からお付き合いがあった会社なのですが、放送局用のカメラレンズを作っているところでした。ロシアに進出したいので、相談に乗ってくれませんかというところから始まり、2011年くらいにフジノンが親会社の富士フイルムに完全に吸収されたタイミングで、私も富士フイルムに移籍になったんです。それまではパートタイムだったのですが、富士フイルムにいってからはフルタイムになりました。富士フイルムの関連会社と富士フイルムで合わせて8年半ロシアで仕事をしましたね。

それを終えて日本に帰ってきたのが2014年で、その時点でセミリタイアという形で、時々アルバイトなどをしながら悠々自適に過ごそうと考えていました。その中でアルバイトの一つとしてやったのが、JETROの海外進出支援専門家の仕事です。日本の中小企業でロシアに進出したい企業の相談に乗るという仕事を2017年半ばから始めました。

ちょうどそれから何ヶ月か経ったときに、現在担当している世界展開力事業のコーディネーターとして外大に着任することになったのです。JETROの方は兼職ができたのですが、大学での仕事が忙しくて、9ヶ月ほどでJETROの仕事を辞めざるを得ませんでした。コーディネーターという仕事は皆さんご存じの通り、日露の学生の交流を促進するということで、サマースクールやインターンシップの企画・運営、ビジネスに直結した実学教育などの仕事を今現在もしていて、来年の3月まで務めることになっています。

 

―コンサルティング会社を設立したとお伺いしました。そのことについて少し詳しくお話を伺えればと思います。

パートタイムベースでフジノンのサポートをしているときに設立しました。フジノンの仕事は朝9時から午後2時半までフジノンのオフィスで仕事をし、その後は自由となっていました。そのタイミングでコンサルティング会社を設立したんです。もともと、ソニーロシアで私の秘書だった女性とその旦那さんに誘われて三人で起業しました。私はロシア滞在が長かったので、ソニーにいた頃から、色々な会社からロシア進出についての相談を受けていたんです。そういったこともあり、ソニーを辞めたあとにそのような相談に乗る仕事をしたら良いのではと思っていました。そのときに先ほどの二人からお誘いを受けました。私は個々の企業から相談を受けるのですが、その相談の中で大抵、人をどのように採用したらいいかという質問を貰っていました。そこで、新しく作った会社が採用の部分を担当すればいいと考え、コンサルタント兼リクルート会社としたんです。むしろリクルートの方に重きを置いていたと思います。私が個々のお客さんを引き込んできて、そのお客さんをリクルート会社に紹介して、日本の会社にとって必要なロシア人の人材を紹介していました。クライアントの中には某楽器メーカーやアパレルメーカーなどがいました。このアパレルメーカーのロシア第一号店のサポートをしたのも私の会社です。進出に当たってロシア人の体のサイズをメジャーで測る必要があったのですが、それに関しては私の会社にいたロシア人スタッフのボディを測定しました。また、日本的な接客をするための研修を私の会社の会議室で行った他、経理のサポートも行いました。この会社のロシア進出は、私の会社が丸抱えで行ったといっても過言ではありません。

 

―ロシアビジネスをする上でのモチベーションなどはありますか。

私の中ではロシアでロシア語を使った仕事をするということが第一優先でした。ロシアでロシア人と仕事をすることが楽しくて仕方なかったですね。夜になるとサーカスを見に行ったり、芝居を見に行ったり、夢のような生活でしたね。これが私のモチベーションになっていたのだと思います。

 

―ロシアビジネスをする上で失敗や挫折の経験があったら、教えていただきたいです。

仕事上で競合他社と競って契約を取れなかったことなどは良くありましたが、それに挫折を感じたことはありませんでした。そのプロセスをむしろ楽しんでいたように思いますね。チャレンジングな経験として言うならば、ロシアの従業員を雇っていたのですが、彼らを上手くマネジメントするということは難しかったですね。ただ、挫折や失敗という記憶はありませんね、もう忘れてるのかもしれないけど(笑)

 

―新井先生が考える、これからの日露ビジネスに期待される分野は何ですか?

ロシアは資源国で資源に頼った経済構造なのですが、それでは将来がないので、構造改革をしていくと思います。ロシアはIT分野の将来性が大きいので、日本のIT企業がロシアのIT企業と組むということなどに可能性があるのではと思いますね。ロシアオリジナルのソフトウェアや技術などがあるので、協力し合える分野があると思っています。ただ、情報テクノロジーなどの分野で、アメリカと組んでいる日本がロシアと協力することは国益にかなわないという部分があるかもしれません。しかし、国益に関わることばかりではないので、民政の分野などで協力し合えることがあるのではないかと考えます。

 

取材・執筆担当:明歩谷七海(4年)、芝元さや香(4年)、添田乙羽(4年)

 

↓インタビュー後編はこちら

tufs-russialove.hatenablog.com

 

ナディヤ・コベルニック先生【ロシア語科教員インタビュー〈後編〉】

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↓インタビュー前編はこちら

tufs-russialove.hatenablog.com

 

 

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日本との出会い

日本との出会いについて教えてください。

ソ連時代、(当時ソ連の一部だった)ウクライナに住んでいた人は、日本の文学作品や伝統的な美術作品に触れる機会があったと思いますが、ソ連が崩壊した後、そしてウクライナに日本国大使館が出来てから現代の日本の情報が徐々に手に入りやすくなったのではないかと思います。

中高生の頃には、インターネットがまだ身近ではなかったので、現代の日本についての情報にアクセスすることは難しかったですね。高校で日本語の授業を取ったときは、写真などから少しだけ現代の日本について知ることはできましたね。大学生になると大使館の図書館や日本文化センターの図書館に通って日本に関する本や雑誌を読んでいました。

 

日本語を勉強し始めた理由は何だったのでしょうか。

正直にいうとよくわからないです…(笑) 子供のころからなんとなく「日本って面白いな」「着物って綺麗だな」と思っていました。そのうち言語にも興味が湧いてきて日本語を勉強してみようかなと思いました。何か大きなきっかけがあったのではなくて、おそらく小さい頃にお母さんが読んでいた雑誌に綺麗な日本人女性の着物姿が載っていたりして、自然と日本への興味を持っていったのだと思います。

 

日本についてはどのように学んでいたのでしょうか。

日本の文学の描写をもとに日本の想像を膨らませることもできたのですが、ソ連時代後期に出版された«Пятнадцатый камень сада Рёандзи»(『龍安寺石庭の15個の石』ツヴェトフ著)などを読んで日本の特徴や習慣についての情報を得ました。ソ連が崩壊してからは日本についてのテレビ番組を見かけるようになったので、もちろんそれは観るようにしていました。

 

日本に来てから日本の印象は変わりましたか。

中高生時代、私の手に入った日本についての出版物は作法など特徴的なものについて書かれていることがほとんどなのですが、テレビ番組では日本人の日常生活について取り上げられていることもありました。でも、私が日本に対して抱いたイメージが全く正しいわけではありませんでしたね。例えば京都について、お寺が多くて歴史が深いイメージは持っていたのですが、実際に行ってみたら想像よりも大きな都市で驚きました。日本に来てからは新たな発見だらけでしたね。

 

勉学以外に没頭したことはありますか。

初めて日本に来たときは着付けや書道、生け花などいろいろな文化体験をしました。後に書道を少しだけやっていました。

今は料理やダンスが好きで、あとドラゴンボートを漕ぐことも好きです。

 

ドラゴンボートを漕ぐんですか!?

はじめはロシア語を話す外国人が集まって約1年間いろいろな大会に出ていました。そのチームの中で今でも漕いでいる人は私と夫だけかな(笑) 今は別のチームに所属していて、コロナ前は国内大会や国際大会に出たりもしていましたね。落ち着いたらまた大会に出たいですね。

 

学生時代の外大と教員になってからの外大

院生の時と教員になった現在で外大の印象の違いはありますか。

学生のみなさんは相変わらず真面目で頭がいいですね。また、先生方の知識が豊富というのもそのままですね。大学内の雰囲気が変わったという点について言うと、私が来た2006 年のときはアゴラ(501名を収容できるホールやカフェが入った外大の施設)がありませんでした。留学生の寮も食堂から一番近い1棟しかありませんでした。

 

外大生に期待することは何ですか。

みなさんは真面目で本当に頑張っているので、それ以上期待することはあるのかなと思いますが、強いて言えば、質問があれば遠慮せず直ぐに聞いてほしいです(笑)

 

ロシア語科の学生に伝えたいことはありますか。

みなさんはそれぞれの目標や夢を持っていると思うのですが、その目標や夢を達成できるように、自分にとって理想的な仕事を見つけられるように、これからも努力して欲しいです。

 

最後にロシア語を学習している外大生に向けて、メッセージをお願いします!

夢や目標に向かって進み続けてください。そして幸せになってください。勉強はみなさん凄く頑張ってされているので、教師としてはこれ以上望みません。

 

 

いつも私達にとても優しく接してくださっているナディヤ先生。その優しさがこのインタビューにとても表れていると思います。また、今まで先生とお話する機会があまり無かったので、今回プライベートな一面を垣間見ることができ嬉しかったです。

 

お忙しい中、私達のインタビューに時間を割いていただき本当にありがとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。

 

取材・執筆担当:芝元さや香(4年)、外山夏帆(3年)

 

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